最高裁判所第一小法廷 平成4年(行ツ)130号 判決 1993年4月08日
右当事者間の福岡高等裁判所昭和六一年(行コ)第二号行政処分取消請求事件について、同裁判所が平成三年一二月二六日言い渡した判決に対し、上告人らから全部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人らの負担とする。
理由
上告代理人佐伯静治、同立木豊地、同槇枝一臣、同秋田瑞枝の上告理由第一章、第二章について
地方公務員法三七条一項が憲法二八条に違反するものでないことは、当裁判所の判例とするところであり(最高裁昭和四四年(あ)第一二七五号同五一年五月二一日大法廷判決・刑集三〇巻五号一一七八頁)、これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は採用することができない。
同第三章について
原審の適法に確定した事実関係の下において、本件各争議行為の当時、地方公務員の労働基本権の制約に対する代償措置がその本来の機能を果たしていなかったということができないことは、原判示のとおりであるから、右代償措置が本来の機能を果たしていなかったことを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は採用することができない。
同第四章について
原審の適法に確定した事実関係の下において、本件各懲戒処分に裁量権の濫用がないとした原審の認定判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官橋元四郎平の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
上告理由第一章、第二章についての裁判官橋元四郎平の補足意見は、次のとおりである。
地方公務員法三七条一項の規定と憲法二八条との関係についての私の見解は、最高裁昭和六一年(行ツ)第三三号平成四年九月二四日当小法廷判決において私の補足意見として述べたとおりであるから、これを引用する。
(裁判長裁判官 小野幹雄 裁判官 大堀誠一 裁判官 橋元四郎平 裁判官 味村治 裁判官 三好達)
(平成四年(行ツ)一三〇号 上告人梶村晃外八三名)上告代理人佐伯静治、同立木豊地、同槇枝一臣、同秋田瑞枝の上告理由
第一章 地公法三七条一項は憲法二八条に違反する(その一)
地公法三七条一項の争議行為禁止規定が、憲法二八条に違反しないとした原判決には、憲法の解釈の誤りがある。
原判決は、同じ地公法三七条一項の合憲性についての五・二一判決を援用し、それに従った判断を示している。周知のとおり、公務員等の争議行為禁止規定の合憲性についての最高裁判例には長い歴史があり、その考え方も数転しているが、四・二五判決以後合憲判決の流れがほぼ固まった。しかし、その一連の最高裁判判例中最後の大法廷判決は五・四判決であり、かつ、同判決は「事柄の重要性にかんがみ、この機会に、これらの判例との関連を含めて、前記の争点につき当裁判所の見解を示すのが相当であると考える」として、いわばそれらの集大成版として、出されたものであるから、上告審においては、形式上はとにかく、実際上はとくに同判決に焦点をあてて論じざるをえない。
このような方針で以下、節を分かって、論議を進めるが、まず一として、合憲性判断の基本的問題である憲法判断の仕方について論じ、ついで五・四判決の順によって、二 財政民主主義、三 公務員の社会的経済的地位の特殊性、四 公務員の職務の公共性について論じ、最後に五として四・二五、五・四の流れに対して今日でも繰り返されている最高裁内部からの批判について述べることとする。なお、それ自体独立した上告理由ではないが、その判断の重要な根拠であるべき諸外国、ILO等の制度の現状について、別に第二章をたてたが、これはもともと本章と一体をなすものである。
一 労働基本権の保障と制度の法理
1 労働基本権保障の意義
労働基本権の保障の目的については、一〇・二六判決が次のように明確にこれを述べている。「憲法二八条は、いわゆる労働基本権、すなわち、勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利を保障している。この労働基本権保障の狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、一方で、憲法二七条の定めるところによって、勤労の権利及び勤労条件を保障するとともに、他方で、憲法二八条の定めるところによって、経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段として、その団体交渉権、争議権等を保障しようとするものである。」と。
ところが四・二五判決、五・四判決には、この「経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段として」というところがなくて「勤労者の経済的地位の向上を目的とする」となっている。労働基本権が「勤労者の経済的地位の向上を目的とする」ということは、それ自体、あながち誤りともいえないが、正確とはいえない。
近代社会は契約の社会である。労使関係もまたそうであって、中世の身分的隷属関係から自由な契約関係となった。近代社会は、そのためには、自由で平等な人間関係によって営まれなければならない。近代が人間を解放したとされる所以である。ところが勤労者はその経済的劣位の故に、近代社会に入っても実質的に自由で平等な地位に立ちえず、そのことのために、さらに経済的劣位を深めることを余儀なくされていった。そこで勤労者が何よりも求めたのは、貧乏に対する恵みではなく、実質的な自由と平等であり、そのための唯一の手段としての労働基本権であった。これによって、勤労者ははじめて近代社会の一員として自由で平等な契約の当事者となることが期待されるわけである。
以上の考えを裏付けるものとして、ウェーバーから若干の引用をしておきたい。ウェーバーは労働問題の専門家ではなかったが、その学問生活を労働問題の研究から出発し、ドイツ社会政策学会の有力会員として発言を続けた。
「労働者は任意の企業者と任意の内容の労働契約を締結する形式的な権利を持ってはいるが、しかしこの権利は、労働希望者にとっては、実際上は、労働諸条件を自分で形成するという最小の自由すら意味するものではないし、また、それ自体では、労働諸条件の形成に対して彼がなんらかの影響力を揮いうるということを保障するものではない。むしろ、このことから生じてくるのは、少なくともさしあたりは、次のような可能性である。すなわち、市場においてより有力である者―この例の場合には通常は企業者―が、自分の判断によって労働諸条件を決定し、これを労働希望者に提示して受諾するか拒否するかをせまり、そして―労働希望者にとって彼の労働提供は普通はより強い経済的緊迫性をもっているために―この労働諸条件を労働希望者に指令することができる、という可能性である。
したがって、契約の自由から生じてくる結果は、まず第一には、市場において財貨の所有を賢明に利用し、これを―法的制限に妨げられることなく―他人に対する勢力獲得のための手段として利用する、というチャンスが開かれるということである。市場で勢力を持っている人たちこそ、このような法秩序の利害関係人なのである」(ウェーバー、世良晃志郎訳・法社会学二六五頁)
「ところで今や、近代的な階級問題が起こってきたのに伴って、一方では一部の法利害関係者(とりわけ労働者階級)の側から、他方では法イデオローグの側から、法に対する実質的な要求が提出されるにいたっている。すなわち、彼らは、単なる取引倫理的な基準だけがこのように排他的に支配することに反対し、荘重な倫理的要請(「正義」「人間の尊厳」)にもとづいて社会法を要求するに至っているのである。……この種の試みは、法的・習律的または伝統的な性格をもたず・純粋に倫理的な性格をもった規範に、つまり形式的な合理性の代わりに実質的な正義を求めるような規範に、立脚しているのである」(同五一五頁)。
「近代の労働者は寛大さや温情的な理解や慈善とは別のものを求めている。彼らはいわゆる教養ある人びとと同じ様に考える権利が自分たちにもあることが認められるよう要求する」(マリアンネ・ウェーバー・大久保和郎訳・マックス・ウェーバーⅠ 一〇六頁)。
これについて大塚久雄教授は次のようにいっている。
「賃金労働者たちは『救貧』の―歴史的にみれば初期には労働強制の、後期には失業救済の―客体ないし対象として現れるのみでなく、彼らがひとたび主体的に自己の心的態度を形成しはじめる場合には、それは、企業家たちの『資本主義精神』とはまったく異なった、むしろそれに対立する姿をとって現れてくるというふうに理解されているといってよいであろう」(マックス・ウェーバーにおける資本主義の精神・大塚久雄著作集八巻一九頁)。
しばしば労働法は市民法の修正原理だといわれるが、労働法が、近代市民法の契約の自由と平等とを形式的には変更しながら、実質的にはこれを実現させようとするという意味において、近代市民法の墨守でもなければ否定でもなく、まさに修正とよばれるのにふさわしい。そうして近代憲法は、このような修正原理をその他のいわゆる社会権とともに、積極的に受容することによって、現代憲法となった。わが日本国憲法が現代憲法といわれる所以もまたここに存する。
そうだとすると、四・二五判決や五・四判決が、労働基本権保障の目的を「経済的地位の向上を目的とする」とだけしかいわなかったのは、現代憲法の意味を十分に理解せず、労働基本権を視る視座が確かでないことを現しているものというべきであろう。
一〇・二六判決は、さきに引用したように、労働基本権を「勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段として」保障しようとするものであるとしたが、四・二五判決はさらに一歩進んで「この労働基本権は、右のように、勤労者の経済的地位の向上のための手段として認められたものであって、それ自体が目的とされる絶対のものではないから、おのずから勤労者を含めた国民全体の共同利益の見地からする制約を免れない」という。
確かに労働基本権の究極の目的は勤労者の経済的地位の向上にあるのであるが、労働基本権の直接の目的は勤労者に実質的な自由と平等とを確保し、以て勤労者が近代社会の自由にして平等な一員として自らの力で経済的地位の向上を果たすことを期する権利、近代社会における一人前の人間となるたの自立自助のための権利、いいかえればすぐれて人間解放のための権利とされているのである。憲法が二七条二項の勤労条件の基準を法定することの保障の他にこの労働基本権を保障した趣旨はここにある。わかりやすくいえば、いい勤労条件を与えられる権利ではなく、自ら勤労条件を決められるようになる権利なのであり、まことに近代社会に相応しい権利なのである。このように手段たることに、結果を与えられる以上に意味があるのである。さきに、四・二五判決が労働基本権の保障の目的を勤労者の経済的地位の向上とだけいっているのは理解不十分だといったのであったが、その理解の不十分さは、まさにここで明らかにされたであろう。
2 基本的人権の制限
ここでは、労働基本権の制限の前提として、基本的人権の制限の一般的法理について、考えてみる。
(1) 人権の制限
基本的人権といえども、いわゆる内面性の精神的自由権を除いては、おそらくすべて、絶対的なものではなく何程かの制限が認められるものと考えており、このこと自体は恐らく異論のないところであろう。
ところで憲法は、いわゆる経済的自由権の代表的な規定である二二条一項、二九条は、公共の福祉のためにこれを制限しうる旨規定しているが、他の精神的自由権については、これを制限しうる旨の規定をおかず、法文上は絶対的な保障の形式がとられている。憲法がこのような異なる規定の仕方をしたのは、憲法自身が、この両者の間に保障の程度、すなわち制限の合憲性に差異のあることを明らかにしたものとみるべきであろう。しかし後者についても、これを制限しうる場合がありうると考えられ、したがって両者の差は絶対的なものとはいえない。
(2) 公共の福祉
そこで以下に、このような基本的人権の制限の根拠について考えてみようと思うのであるが、まず最初に考えられるのは、いうまでもなく、公共の福祉ということである。最高裁大法廷判例が「憲法の保障する各種の基本的人権についてそれぞれに関する各条文に制限の可能性を明示していると否とにかかわりなく、憲法一二条、一三条の規定からしてその濫用が禁止せられ、公共の福祉の制限の下に立つものであり、絶対無制限のものでないことは、当裁判所がしばしば判示したところである」(チャタレー事件最大三二・三・一三刑集一一・三・九九七)と自らいっているように、最高裁は古くから、公共の福祉を理由に、人権を制限しうるとしていた。もし人権制限の一般的根拠を憲法の明文に求めるとすれば右両条文以外には考えられないので、右判例の解釈を全く理由がないとはいわないが、このように一般的な形で公共の福祉による人権の制限を認めることには多分に問題がある。
およそ人権制限が問題とされるような場合は、多かれ少なかれ公共の利害に関するからであろうし、ことに法律をもって人権を制限する場合には、一般に法律は何らかの意味で公共の福祉のために制定され、また公共の福祉を目的とする要素を含むものであるから、公共の福祉を人権制限の理由とすることは、問を以て答えとなす類であって、何の理由もあげていないのに等しい。したがって、公共の福祉をもって人権制限の理由と認めるときは、ほとんど具体的内容のない抽象的な根拠をもって人権を制限するのを許すこととなり、しばしば最高裁は公共の福祉を理由に安易に人権の制限の合憲性を認めたと批判されることとなるのである。
一〇・二六判決は「国民生活全体の利益の保障という見地からの制約」「国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれ」と、労働基本権制限の根拠を述べている。同判例はその後段で「公共の福祉の要請によって禁止される」といっているから、両者は相排斥する概念ではないが、両者は後者を具体化しようとしたものであって、その努力は評価することができる。四・二判決は、その具体化の方向をさらに進めて「公務員の労働基本権については、公務員の職務の性質・内容に応じて、私企業における労働者と異なる制約を受けることのあるべきことも、また、否定することができない」が「ごく一般的な比較論として、公務員の職務が、私企業や公共企業体の職員の職務に比較してより公共性が強いということができるとしても、公務員の職務の性質・内容を具体的に検討しその間に存する差異を顧みることなく、いちがいにその公共性を理由として、これを一律に規制しようとする態度には、問題がないわけではない。」とするに至った。
ところが、四・二五判決は一〇・二六判決の「国民生活全体の利益」から「生活」を削って「国民全体の共同の利益」とし、「公共の福祉」とは「国民全体の共同の利益」を指すとした。すなわち「国民全体の共同の利益」とは、「公共の福祉」を単にいいかえたものにすぎず、また元に戻されてしまったのであった。
(3) 内在的制約
人権制限の根拠として、公共の福祉と並ぶ有力な理論に、内在的制約の理論がある。一般的には人権にもそこに当然に内在する制約があり、この限度で法律で制限することを憲法が禁じていないのは当然の事理であるとするのである。
学説としてこれをはじめて主張されたのはいうまでもなく宮沢教授である。「甲の人権と乙の人権とをひとしく尊重しつつ、両者のあいだの矛盾、衝突の調整をはかる、というのが、ここで憲法に課せられた重大な任務でなくてはならない。かような民主的な人権の調整の原理ともいうべきものは、その本質上当然のことながら、何よりもまず公平の要請をその内容とする。しかも、そこでの公平は、単に形式的公平であるだけでなく、実質的な公平でなくてはならない。民主的な人権調整の原理は、したがって実質的な公平の要請をその内容とする。」「この実質的公平の原理は各種の人権そのものの本質に内在する原理である。憲法の規定によって、とくに定められていると否とにかかわらず、近世民主制の理念にもとづいて人権を保障することそれ自体に、論理必然的に内在する原理である。この原理を欠くとき、言葉の正しい意味における人権の保障というものはあり得ない。」(宮沢・憲法Ⅱ初版二二五―二二七頁)。
たとえば、一〇・二六判決は「その担当する職務の内容に応じて、私企業における労働者と異なる制約を内包している」「国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然の内在的制約として内包しているものと解釈しなければならない。」といい、また四・二判決はさきの引用箇所に続けて「ただ、公務員の職務には、多かれ少なかれ、直接または間接に公共性が認められるとすれば、その見地から、公務員の労働基本権についても、その職務の公共性に対応する何らかの制約を当然の内在的制約として内包しているものと解釈しなければならない。」といっている。
内在的制約という考え方は、それぞれの人権について制約の必要を考えようということであるから、従来の抽象的一般的な公共の福祉の考え方よりも具体的であり、それだけ憲法に適合することができるというべきであろう。一〇・二六判決や四・二判決にこの考え方が取り入れられたのも、その故と思われる。この考え方が成り立ったもう一つの理由に、人権に対していわば外在的な、上にあるかの如き、公共の福祉に対する拒否反応があるのではないかと思われる。そこに深い憲法感覚が見出せると思うのである。
内在説の問題点は、人権制約の基準があいまいだということにある。宮沢教授も「かような実質的公平の原理は、そのままでは個々の人権の矛盾・衝突が具体的に問題になるときに、それを解決する原理としては、あまりに抽象的にすぎる。そこでさらに個々の人権について、この原理から派生するより具体的な原理が、要求される。」(二二七頁)とし、それが「判例によって、作り出される」ことを期待した(二二八頁)のであるが、期待のようにはなっていない。
(4) 利益較量
以上に述べてきたところから明らかにされたように、たとえば公共の福祉による人権の制限を考える場合にも、公共の福祉のためだからといって直ちに制限が許されるわけではない。そうすると実際に考えられるのは、その人権と公共の福祉と主張されるものに含まれる利益との較量である。人権制約について利益較量という考え方を導入したのは佐藤教授(ポケット注釈全書憲法初版一〇五頁以下)であるが、宮沢教授の実質的公平という考え方(前出)も同様な考え方ということができようか。
最高裁判例も、昭和四〇年頃から、このような考え方を取るに至った。その最初ともいうべき和歌山県教組専従休暇事件判決(最大四〇・七・一四、民集一九・五・一一九八)は、公務員の労働基本権の制限について「右の制限の程度は、勤労者の団結権等を尊重すべき必要と公共の福祉を確保する必要とを比較考量し、両者が適正な均衡を保つことを目的として決定されるべきである」と利益較量の立場を打ち出したが、これに続いて「このような目的の下に立法がなされる場合において、具体的に制限の程度を決定することは立法府の裁量権に属するものというべく、その制限の程度がいちじるしく右の適正な均衡を破り、明らかに不合理であって、立法府がその裁量権を逸脱したと認められるものでないかぎり、その判断は、合憲、適法なものと解するのが相当である」とした。これでは、折角利益較量に踏みこんだが、実際には違憲審査をためらって、立法府の裁量に逃避したものというべきであろう(芦部信喜「地方公務員の専従休暇に関する処分と裁判所の審査権」法協八三・三)。
利益衡量は結構だが、基準のない衡量に基準がなければ、それは立法府の裁量に属するということになりがちなのは当然のことだったのである。
(5) 必要最小限の基準
一〇・二六判決はこのような批判にこたえ「(1)労働基本権の制限は、労働基本権を尊重確保する必要と国民生活全体の利益を維持増進する必要とを比較衡量して、両者が適正な均衡を保つことを目的として決定すべきであるが、労働基本権が勤労者の生存権に直結しそれを保障するための重要な手段である点を考慮すれば、その制限は、合理性の認められる必要最小限度のものにとどめなければならない。」として比較衡量についての一つの基準として必要最小限の基準を示した。
同判決は続いて「(2)労働基本権の制限は、・・国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれのあるものについて、これを避けるために必要やむをえない場合について考慮されるべきである。(3)労働基本権の制限違反に伴う法律効果、すなわち、違反者に対して課せられる不利益については、必要な限度をこえないように、十分な配慮がなされなければならない。」としている。この(2)(3)については、判決はこれを利益較量の問題としてはいないが、実質的にみて、まさに利益較量の一つの基準とみるべきであろう。利益較量といっても、これを題目とするだけでは、公共の福祉論と少しも変わらない。また、無原則、無定量の較量では合憲性批判の基準とはなりえない。ここで利益較量にも、比較される内容の特定がなければならないし、較量の基準の明示が求められることとなる。一〇・二六判決が利益較量について基準を設定したことは、その意味で高く評価されるのである。
(6) 人権保障の序列
憲法の人権保障には優劣の序列があるとする考え方がある。いや、あるどころか憲法上の人権保障についてのもっとも興味あるテーマとさえされているといってもいいかもしれない。
わが憲法には、人権、統治の原理を含めて多くの法原理が規定されており、いうまでもなく、それらはいずれも高く尊重されなければならないものであるが(とくに人権について憲法一一条、一二条)、これまたいうまでもなく、これらの諸原理は具体的場合には矛盾、衝突することがあるのを免れない。しかし、およそ同じ憲法上の原理である以上は、全く両立し難いなどということは考えられない。また、憲法上の法原理に優劣の差、憲法上の価値の序列、のあることも否定し難いが、ともにいずれも憲法上尊重されなければならないものである以上は、それが矛盾、衝突する場合にも、優位にある原理が一方的に劣位にある原理に優越して、これを全面的に否定すると考えるべきではなく、さきに引用した宮沢説のように、ともに尊重しつつ、その調和を図ることを考えるべきである。
二 財政民主主義
1 五・四判決の判旨と問題点
財政民主主義が公務員等の争議行為禁止の合憲性の根拠として最高裁の判決に取上げられたのは、いまさらいうまでもなく四・二五判決においてである。ところがこの財政民主主義は五・四判決では合憲性の第一の根拠とされ、それまで第一の根拠とされていた公務員の地位の特殊性は、一転して「加えて」と付加的補足的根拠として最後に上げられるようになった。これが五・四判決とそれ以前の判決との一番大きな違いである。したがって五・四判決がみずからを集大成版とした理由はこのあたりにあったのであろうと思われる。
五・四判決は、四・二五判決を引用したうえ「これを要するに非現業の国家公務員の場合、その勤務条件は、憲法上、国民全体の意思を代表する国会において法律、予算の形で決定すべきものとされており、労使間の自由な団体交渉に基づく合意によって決定すべきものとはなされていないので、私企業の労働者の場合のような労使による勤務条件の共同決定を内容とする団体交渉権の保障はなく、右の共同決定のための団体交渉過程の一環として予定されている争議権もまた、憲法上、当然に保障されているものとはいえないのである」という。
このうち、最初の「非現業の国家公務員の場合、その勤務条件は、憲法上、国民全体の意思を代表する国会において法律、予算の形で決定すべきものとされており」という部分と、争議権が「団体交渉過程の一環として予定されている」という部分は、大筋においては争いはないが、それ以外については大いに争いがある。判決は国家公務員については「団体交渉権の保障はなく」というが、判決自らいうように、公務員も「憲法二八条にいう勤労者にあたるものと解される」のであるから、憲法上は公務員にも団体交渉権が保障されていることは明らかである。したがって、財政民主主義と公務員の団体交渉権との間に若干の矛盾する面があることは確かであるが、それだからといって直ちに、一方的に団体交渉権の方だけを否定してしまう判決の思考は、あまりにも短絡的、硬直的である。われわれは、財政民主主義と労働基本権というふたつの重要な憲法上の原理の間に調和を保つことが、必要であり、また可能であると考える。このことについては、一般論としてさきに本章一ことにその2(6)で述べたが、以下さらに具体的にこれらを明らかにしたい。
2 団体交渉
団体交渉とは、労働者が労働条件を維持向上するため団結して使用者と交渉することである。団体交渉の結果合意に達したときは、その合意を確かなものにするため労働協約が締結される。そこで労働組合法一条一項も「労働協約を締結するための団体交渉」といっている。したがって憲法二八条の団体交渉権の保障は、労働協約の締結の保障を含むものである。しかしこの労働協約の締結の保障とは、労働協約の締結権を奪ってはならないこと、労働協約の締結を助成すべきことを含むものであるが、労働協約の締結を義務づけることを含むものではない。いいかえれば団体交渉の保障とは、労働協約の締結を目的として交渉することを保障するものであるが、具体的場合に労働協約を締結することまで保障するものではない。つまり、団体交渉とは文字どおり交渉であって、交渉であるから合意を目的とするが、合意が成立することまでを保障するわけではない。
団体交渉の当事者は労働者と使用者である。したがって、公務員の場合、その団体交渉の相手方は「使用者としての政府」(四・二五判決「使用者としての政府にいかなる範囲の決定権を委任するかは……」、ドライヤー報告書一三三項)である。国公法九八条五項は「使用者としての公衆」、地公法は「使用者としての住民」といっているが、それは公務員のサーヴィスが誰のためになされるかという意味で比喩的にいっているのであって、これによって公衆なり住民なりが法律上労使関係の当事者としての使用者になるわけではないことはいうまでもない。地方公務員の使用者は地方公共団体、国家公務員の使用者は国ということになるが、国というのは漠然としているうらみがあるので政府としていいであろう(憲法七三条四号は「官吏に関する事務を掌理すること」は内閣の職権と定めている。)。
3 財政民主主義
ところが、公務員の勤務条件の基準は法律で定める(憲法七三条四号)、国の財政は国会の議決に基づく(同八三条)、予算は国会の議決を経なければならない(同八六条)とされているので、政府は公務員の勤務条件を自身で決定することはできない。一方、団体交渉は労働条件を決定することを目的とするものであるから、右に述べたような財政民主主義等と矛盾する面のあることは否定しきれない。
五・四判決は、このような矛盾を理由に、公務員の場合「私企業の労働者の場合のような労使による勤務条件の共同決定を内容とする団体交渉権の保障はない」としたことは、すでに述べたとおりである。すなわち、財政民主主義の団体交渉権に対する一方的優位を宣言したのである。これについて香城調査官の解説は「団体交渉権すなわち本件判決が『労使による勤務条件の共同決定を内容とする団体交渉権』と呼ぶものが憲法上公務員等に対しても保障されていることと、国会がその意思に基づいて公務員等の勤務条件を決定する権限を憲法上保有していることとは、明らかに二律背反であって、両立しない。したがって、公務員等に対し右のような団体交渉権が憲法上保障されているか否かの問題は、勤労者に対して、右の団体交渉権を保障する旨の憲法二八条の法原理と、憲法の基本的な構成原理である議会性(ママ)民主主義とのいずれに憲法上の優位が認められるかという法原理間の序列確定の問題にほかならないのである。本判決は後者に優位性を認めたが、一般論としてことを論ずる限りでは、その結論には異論はないとおもわれる」という。「二律背反」とか「憲法上の優位性」とかいうことば自体は判決にあるわけではないが、その趣旨はそういうことであろう。しかし「異論はないと思われる」どころではない。大いに異論がある。
この問題についての一般論についてはさきに一ことにその2の(6)で述べたところであるが、優位の原理も一方的に劣位の原理に優越してこれを全面的に否定すると考えるべきではなく、比較考量のうえ調和を図ることを考えるべきである。
財政民主主義の根拠である議会制民主主義はいうまでもなくわが憲法の基本原理のなかでももっとも尊重されなければならない原理の一つであるが、しかしそれを根拠に人権に対する一方的優位をいうことはできない。憲法一三条が、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と人権が国政の上で最大の尊重をされなければならないことをうたっていることを忘れてはならない。最高裁大法廷昭四三・一二・四判決(刑集二二・一三・一四二五)が「公職選挙における立候補の自由は……憲法の保障する重要な権利であるから、これらに対する制約は、特に慎重でなければならず、組合の団結を維持するための統制権の行使に基づく制約であっても、その必要性と立候補の自由の重要性とを比較衡量して、その許否を決すべきである」として、本判決の場合とは逆に議会制民主主義の基本原理である立候補の自由も労働基本権の一つである団結権によって制約される場合のあること、その場合にも両者を比較衡量すべしとしていることに留意すべきである。
4 大綱的基準のもとでの団体交渉
私はさきに「財政民主主義と公務員の団体交渉権との間に若干の矛盾する面がある」といって、全面的に矛盾するといわなかったが、それは、財政民主主義が公務員の勤務条件のすべてをカバーしきれないからである。勤務条件法定主義を定める憲法七三条四号は「法律に定める基準に従い」というのであって、法律で定めなければならないのは「基準」であって、勤務条件のすべてではない。実際にも、国家公務員の勤務条件について法律に定められているのは基準というよりむしろ大綱といった方がいいくらいの大枠だけである。国公法では、給与は給与準則に基づいてなされると定めているが(六三条一項)給与準則は今日まで定められていないし、それ以外の勤務条件についてはあげて人事院規則で定めることができるとされており(一〇六条)、多くの人事院規則のほか、さらに多数の通達によって定められている。これは予算についても同様であって、予算は大枠をきめるだけであって、支出の細目を直接拘束するものではない。
地方公務員については、地公法六四条六項に「職員の給与、勤務時間その他の勤務条件は、条例で定める」とされているが、実際には条例のほか、多くの人事委員会規則、教育委員会規則あるいは通達などによって定められており、国家公務員の場合と実情は異ならない。
もともと歴史的にみて、財政民主主義は人民の負担である租税に関し、人民の代表である議会の権限を拡大強化することを目的としたものであった。財政ことに支出はもともと行政の領域に属することであるが、国民の税負担を支出の面からも抑制すること、また財政が政治の実施の手段的基礎であることなどから、これに議会が関与し統制を加えることをするようになったものである。したがって支出に対する過大な統制は財政民主主義の目的とするところでないし、それはかえって行政を窒息させることともなりかねない。勤務条件を細目まで法定することは、その多種多様性から見て技術的に困難であるし、またかえって行政の活性ある活動を阻害することにもなるし、それはまた財政民主主義の本来の目的外のことでもある。したがって、勤務条件について、法律・予算の枠内での団体交渉は、それによって労働基本権をそれだけでも守ることになるし、一方財政民主主義をいささかなりとも損するものでもない。
これに対して五・四判決は、弁護人らからの反論の(イ)として「大綱的基準のもとでその具体化を団体交渉によって決定するという制度をとる余地があるとしても、そのような制度が憲法上当然に保障されているわけではない。」といっているが、われわれは、このような「制度をとる余地がある」というようなことをいっているのではない。今まで述べてきたように、憲法みずから勤務条件の法定とは基準を定めることだとしているのであり、実定法もそれにしたがって、ほんとうの大綱しか定めていないのであって、財政民主主義の想定する勤務条件法定とはまさにそのようなものである。したがって、五・四判決のことばをかりるならば「団体交渉によって具体的な勤務条件を決定する」ということは「国会の意思とは無関係に、憲法上の要請として存在するもの」なのである。
5 政府案についての団体交渉
それでは、勤務条件法定主義の及ぶ範囲すなわち勤務条件の基準、あるいは予算について、たとえば、いわゆる春闘の賃上げ要求の場合などについては、どうなるのだろうか。この場合には政府は当該勤務条件を最終的に決定することはできない、したがって政府との団体交渉はできない、ということになるのだろうか。
予算については、予算を作成し、国会に提出するのは、内閣であることは憲法八六条の定めるところである。法案についても、それを作成し、国会に提出するのは、多くは(ことに公務員の勤務条件については)政府である。この案の作成、提出の過程で政府案について交渉することができる。当局がこれを団体交渉とよぶかどうかは別として、このような交渉は実際にしばしば行われている。さきに言及した春闘における政労交渉といわれるものも、勤務条件のそれこそ大枠についての交渉である。このような交渉はもちろん直ちに勤務条件を決定できるものではないが、その故に財政民主主義に反することはなく、また事実上勤務条件に影響を与えることができるので団体交渉としての意義もある。この場合、政府は合意した案を国会に提出しないことも、またそれが国会で否決されたり修正されたりすることもありうるが、その場合は政府はそれについて政治責任を負わなければならないから、このような政府案についての団体交渉、すなわち最終決定に至らない制限された団体交渉でも実際上はかなり大きな効果がある。このように、この場合にも財政民主主義と団体交渉権とは、それなりに両立できるのである。
五・四判決はこの点につき、弁護人の反論に対する判断の(ロ)として、「国会の承認を求める原案を決定することはできるはずである」とする主張について「右の意味における共同決定の権利が憲法上保障されているものとすれば、勤務条件の原案につき労使間に合意が成立しない限り政府はこれを国会に提出することができないこととなり」といっているが、さきに2「団体交渉」において述べたとおり、団体交渉は合意の成立を保障するものではなく、交渉を保障するだけである。したがって原案についての団体交渉の保障は政府案の国会提出を妨げるものではない。判決の反論は団体交渉についての初歩的な誤解によるものである。
以上のような五・四判決に対する批判は、今日ではすでに通説となっているといってもいいであろう。
菅野和夫教授(「財政民主主義と団体交渉権覚書」法学協会百周年記念論文集二巻三一九頁)は、「五・四判決の財政民主主義論は、憲法二八条の団体交渉権を硬直的にとらえすぎた上で、同権利を公務員等につき一切否定し、代わりに憲法八三条以下の財政民主主義原則を憲法解釈として不自然に肥大化させたきらいがある。むしろ、公務員等も憲法二八条の『勤労者』として同条の団体交渉権の保障を受けているが、他方では財政民主主義等の対立的憲法原理の制約下にある、との立場から出発して、両者間に調和的な解釈を求めるというのが、より正統な憲法解釈であろう」という。
同様な批判は最高裁内部においても、四・二五判決から今日まで絶えることがない。このことは後で述べる。
三 公務員の社会的・経済的地位
1 四・二五判決
同判決は、公務員の争議行為禁止の合憲性の根拠として、さらに、次のように判示している(そのなかの<1><2><3>は、便宜上、代理人が附した)。
「私企業の場合と対比すると、私企業においては、<1>極めて公益性の強い特殊のものを除き、一般に使用者にはいわゆる作業所閉鎖(ロックアウト)をもって争議行為に対抗する手段があるばかりでなく、<2>労働者の過大な要求を容れることは、企業の経営を悪化させ、企業そのものの存立を危殆ならしめ、ひいては労働者自身の失業を招くという重大な結果をもたらすことともなるのであるから、労働者の要求はおのずからその面よりの制約を免れず、ここにも私企業の労働者の争議行為と公務員のそれとを一律同様に考えることのできない理由の一が存するのである。<3>また、一般の私企業においては、その提供する製品または役務に対する需給につき、市場からの圧力を受けざるをえない関係上、争議行為に対しても、いわゆる市場の抑制力が働くことを必然とするのに反し、公務員の場合には、そのような市場の機能が作用する余地がないため、公務員の争議行為は場合によっては一方的に強力な圧力となり、この面からも公務員の勤務条件決定の手続きをゆがめることとなるのである。」
五・四判決はこれを「国家公務員の社会的、経済的関係における地位の特殊性について」の判示だとし、「右判示の趣旨は、五現業及び三公社の職員についても、基本的にあてはまる」という。五現業等にあてはまるかどうかは本件とは関係ないが、この判示は本件にとっての問題であるので以下に検討する。
2 ロックアウト
憲法二八条は勤労者の争議権を保障しているが、使用者の争議権は保障していない。その理由は「経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段として、その団結権、団体交渉権、争議権等を保障しようとするものである」という一〇・二六判決によって明らかである。劣位に立つ労働者に争議権等を保障して労働者を使用者と平等になるのであって、もともと優位に立つ使用者には争議権は保障されないのである。したがって、政府はロックアウトをすることができないからといって不利益とか不平等とかいうことはできない。私企業でも使用者がロックアウトをすることができるのは次のような場合だけである。
「争議権を認めた法の趣旨が争議行為の一般市民法による制約からの解放にあり、労働者の争議権について特に明文化した理由が専らこれによる労使対等の促進と確保の必要に出たもので、窮極的には公平の原則に立脚するものであるとすれば、力関係において優位に立つ使用者に対して、一般的に労働者に対すると同様な意味において争議権を認めるべき理由はなく、また、その必要もないけれども、そうであるからといって、使用者に対し一切争議権を否定し、使用者は労働争議に際し一般市民法による制約の下においてすることのできる対抗措置をとりうるにすぎないとすることは相当でなく、個々の具体的な労働争議の場において、労働者側の争議行為によりかえって労使間の勢力の均衡が破れ、使用者側が著しく不利な圧力を受けることになるような場合には、衡平の原則に照らし、使用者側においてこのような圧力を阻止し、労使間の均衡を回復するための対抗防衛手段として相当性を認められるかぎりにおいては、使用者の争議行為も正当なものとして是認されると解すべきである。労働者の提供する労務の受領を集団的に許否するいわゆるロックアウト(作業所閉鎖)は、使用者の争議行為の一態様として行われるものであるから、それが正当な争議行為として是認されるかどうか、換言すれば、使用者が一般市民法による制約から離れて右のような労務の受領拒否をすることができるかどうかも、右に述べたところに従い、」これを決すべきである(丸島水門事件最三小五〇・四・二五民集二九・四、同旨多数)。公務員の争議行為の場合、「使用者側が著しく不利な圧力を受けることになるような場合」としては、公務の不提供が長期にわたるなどして国民全体の共同利益に著しく重大な支障をもたらすおそれがあるような場合がそれであろう。そうだとしたらこのような場合は、緊急調整などの方法による争議行為の制限を設定することが可能であり、それによって、ロックアウトによるより以上に十分に争議行為に対抗することができる。
このようなより小さな制限によって調和が可能なのに、それをしないで全面的に禁止してしまうことは必要最小限の制限の基準に反する。
3 市場の抑制力
四・二五判決からの前記引用中<2><3>はいずれも、私企業においては、労働者の要求が過大であったり、争議が長期化したりすると、市場の競争によって、企業が危殆にひんし、ひいては労働者自身もそれによって影響を受けることとなるので、労働者の争議行為はおのずから制約されるというのである(判決は、この<3>だけを市場の抑制力とよんでいるようであるが、<2>も同じようによんでいいであろう。五・四判決も、あわせて市場の抑制力とよぶもののようである)。
しかし、争議行為をすれば労働者は賃金を失う。したがって労働者は争議行為に入ろうとする段階ですでに大きな抑制を受けているのであって、まして長期の争議行為など、よくよくのことがなければできるものではない。労働者は、市場の抑制力などにより前に、争議行為に必然的に伴う賃金を失うという大きな抑制力を受けているのであって、このことは、私企業の労働者であろうと、公務員であろうと全く変わりはない。
また公務員の争議行為の場合には、労使どちらにとっても世論がおおきな圧力となる。国民は税金を支払い公務のサーヴィスを受ける立場にあるから、争議行為についても、要求についても、労働者がその支持を得ることは一般にむづかしいことはいうまでもない。公務員はこのような世論の大きな抑制を受けているのであって、市場の抑制力の比ではない。
4 議会に対する圧力
原判決は控訴人らの主張に対する見解として「団体交渉ないし争議行為による影響力が行政当局にのみ向けられ、議会に及ぼされないということは考えにくいことであって、一般的には議会に対する不当な圧力を加える虞れがあるといわざるを得ず、……議会における自由な審議を確保しようとしたことも不合理とはいえない。」という。
なるほど議会の自由な審議は望ましいが、議会は象牙の塔ではなく、政治の場なのである。そこでは国民の間のいろいろな思想・信条、政治的社会的経済的利害の対立、それを背景とする議論、圧力が渦をまくなかで、それらを考慮し論議して、そのなかから国民の意思といわれるものを形成していく場なのである。かえって行政府に対する影響力が議会に対しても影響を及ぼすというほどの間接の影響まで断絶しなければならないというほどまで国民から隔絶された場であってはならないであろう。原判決のいうところは全く理由がない。
なお、五・四判決は弁護人の反論に対する判断の(ハ)として「勤務条件の共同決定を内容とする団体交渉権が憲法上保障されていないとしても、公務員等がその勤務条件に関する正当な利益を要求し、これを守(ママ)ために団結して意思表示をし、争議行為によって国会による決定などに対して影響力を行使することは、憲法がこれを許容しているものと解することができる、という主張がある。」といっているが、同事件の弁護人も、本件の代理人もそのような主張をしたことはない。
四 職務の公共性
1 職務の公共性とは何か
最高裁判例の変遷をたどってみると、初期には、公務員が全体の奉仕者(憲法一五条)であること、その争議行為に及ぶことが公共の福祉に反することが、争議行為禁止合憲の根拠とされていたが、それについての詳細の説明は無かった(弘前機関区事件大法廷昭二八・四・八など)。しかし、その争議行為が公共の福祉に反するというのは、その職務が公共性を有するからということであろう。
職務の公共性ということをはっきりうたったのは一〇・二六判決であって、公務員の職務の公共性を理由にその争議行為を制限しうることを認めたうえ、その制限をしうるための条件を明らかにした。四・二判決はさらにそれを発展させて、その職務は多様であり、したがってその公共性にも強弱があることを理由に、争議行為を全面一律に禁止することは違憲であることを、はじめて明らかにした。
それ以後、公務員の職務の公共性ということが、どの判例にもうたわれるようになったが、その役割は四・二五判決以後大きく変わった。四・二五判決は、争議行為禁止合憲の第一の根拠として、公務員の地位の特殊性と職務の公共性とをあげた。地位の特殊性とは全体の奉仕者(憲法一五条)をさし、職務の公共性とは、「公共の利益のために勤務するもので」「その担当する職務内容の別なく」「その地位の特殊性および職務の公共性と相容れない」として、その全面一律禁止合憲の根拠とされた。ことばこそ多少異なれ、その考え方において、一〇・二六前のそれと異ならない。その合憲という結論だけでなく、その考え方においても、以前に戻ったのであった。ただし、同判決がいう公務員の地位の特殊性が憲法一五条の全体の奉仕者であることをさすことは明らかであるが、職務の公共性とはどういうことをさすのかは、判決の文書の上からははっきりとはわからない。
五・四判決もまた、四・二五判決の考え方を承継し「四・二五判決が非現業の国家公務員の職務の公共性につき判示するところ」として「公務員は、私企業の労働者と異なり、国民の信託に基づいて国政を担当する政府により任命されるものであるが、憲法一五条の示すとおり、実質的には、その使用者は国民全体であり、公務員の労務提供義務は国民全体に対して負うものである」「公務員が争議行為に及ぶことは、……多かれ少なかれ公務の停廃をもたらし、その停廃は勤労者を含めた国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、またはその虞れがある」との判示を引用している。しかし、この引用の前段「公務員は私企業の労働者と異なり……」の部分は公務員の地位の特殊性のことであり、後段は職務の公共性とは近いがそのものではなく、公共性を有する職務にあるものが争議行為をした場合の影響のことであるというのが四・二五判決の文意に即した理解であって、五・四判決が引用する趣旨とは合わないように思われる。この点については五・二一判決の次の判示が、ことばとしては明快なように思われる。地方公務員は「地方公共団体の住民全体の奉仕者として、実質的にはこれに対して労務提供義務を負うという特殊な地位を有し、かつ、その労務の内容は、公務の遂行すなわち直接公共の利益のための活動の一環をなすという公共的性質を有するものであって、地方公務員が争議行為に及ぶことは、右のようなその地位の特殊性と職務の公共性と相容れず、また、そのために公務の停廃を生じ、地方住民全体い(ママ)し国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、又はそのおそれがある」というのである。このように、公務員の地位の特殊性とか職務の公共性とかいっても、とうてい厳密な概念ではなく、いわばムード的なことばでしかない。その点を措けば、職務の公共性は判例を一貫する争議禁止の合憲性判断の基準だったということができよう。
2 職務の公共性と争議行為の制限
いま述べたように、職務の公共性が最高裁判例を通じて公務員の争議行為禁止の合憲性判断の基準とされてきたのであり、われわれもまた原則的に同じように考えている。しかし、それらの判決の結論が異なることから見ても明らかなように、それについての理解は同じではない。
四・二判決は「公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない、とする憲法一五条を根拠として、公務員に対して右の労働基本権をすべて否定するようなことが許されないことは当然である」「ところで、公務員の職務の性質・内容は、きわめて多種多様であり、公務員の職務に固有の、公共性のきわめて強いものから、私企業のそれとほとんど変わるところがない、公共性の比較的弱いものに至るまで、きわめて多岐にわたっている。」したがって「公務員の職務の性質・内容を具体的に検討し、その間に存する差異を顧みることなく、いちがいに、その公共性を理由として、これを一律に規制しようとする態度には、問題がないわけではない。」「公務員の労働基本権に具体的にどのような制約が許されるかについては、公務員にも労働基本権を保障している叙上の憲法の根本趣旨に照らし、慎重に決定する必要があるのであって、その際考慮すべき要素は、一〇・二六判決において説示したとおりである(最刑集二〇・八、九〇七―九〇八)。」地公法三七条、六一条四号の規定が「文字どおりに、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、それは、前叙の公務員の労働基本権を保障した憲法の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最小限にとどめなければならないとの要請を無視し、その限度をこえて刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑いを免れないであろう。」われわれはこの判示に全く賛成である。
四・二五判決およびこれを引用する五・四判決は、公務員の争議行為を制限するのは、それが「多かれ少なかれ公務の停廃をもたらし、その停廃は勤労者を含めた国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、またはその虞れがあるからである」といって「国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼす」からだとしながら、禁止しなければならないほどの重大な影響を及ぼすことを何ら検討することなく(それは不可能ではあるが)一律禁止を合憲としたことは全くの背理であるといわなければならない。それというのも、これらの判決は職務の公共性といいながら、それを具体的に考えることなく、逆に四・二判決がはっきりと手を切った全体の奉仕者を常に一緒に引きずっているからである。それは全体の奉仕者というイデオロギーの所産なのであり、職務の停廃懈怠とその影響というきわめて具体的な考量を求められるこの問題と全くそぐわない考え方である。
本章の初めに述べた憲法上の原理、権利の比較考量という方法による限り、職務の公共性から、公務員の争議行為の一律全面禁止の結論は出て来ない。五・四判決が職務の公共性といいながら、これを付加的補足的理由としてしまったのは、そのためであろう。
五 最高裁判例における批判的意見
さきにも述べたように、四・二五――五・四判決の多数意見に対し、四・二五判決の当初から今日に至るまで、批判的な少数意見が絶えない。これは全く異例なことであり、多数意見の説得力がいかに欠けているかということ、また、実質的には確立した判例とはいえないということを、如実に示している。以下にその主なものをあげておく。
(1) 四・二五判決の田中、大隈、関根、小川、坂本五裁判官の意見(要旨)
意見は多岐にわたるが、その重点は勤務条件の基準は法律で大綱を定め、その具体化につき内閣に裁量権を与え、かつ、公務員の代表者と団体交渉によってこれを決定する制度を設けることも憲法上可能で、したがって、勤務条件の決定が団体交渉になじまないとすることはできない。公務員の場合団体交渉の余地範囲が狭く、したがって、争議権の実質的効果も私企業の場合に比べれば乏しいが、そうかといって団体行動による影響力の行使を全く認める余地がないというわけではない。
(2) 五・四判決の団藤裁判官の意見(要旨)
憲法の予定する財政民主主義は、公務員の勤務条件につき法律でその大綱を定めるにとどめることも可能であり、したがって、団体交渉による決定になじまないものとすることはできない。それをどうするかは立法政策に委されているが、基本的人権の規定が憲法において占める格別に重要な地位にかんがみるときは、争議権を含む労働基本権は、公務員についてもなるべくひろくみとめるのが憲法の本旨だというべきである。
(3) 同判決の環裁判官の意見(要旨)
国会は使用者たる国民全体を代表する機関であって、公務員の労使関係の外に立つ第三者ではない。従って、公務員の労使関係にも現実には私企業に近い労使の意思の対立が認められる。従って団体交渉や協約を合理的な修正を施した上で公務員の実定法にとりいれることは、憲法二八条の法意に沿う所以であろう。また、団体交渉権及び争議権の権利の構造の面からみるに、団体交渉は一定の交渉事項について意見の合致を見出すための交渉を行うことを内容とする事実行為であるから、事実として交渉が行われ、その結果として労使の意思の合致があった場合、それが国会の意思に事実として影響をもつことが考えられるから、労使の意思の合致があっても法的に国会を拘束しない点でも不十分ではあるか、(ママ)なお憲法二八条の保障する団体交渉の一態様であろう。しからば、団体交渉における交渉力の対等を実現することを狙いとして実施される争議行為も、公務員の性質とほんらい矛盾するものとは考えられない。
(4) 日本専売公社事件一小昭五六・四・九判決の中村裁判官の意見(要旨)
憲法二八条の団体交渉権等はもっと広い弾力的な内容をもつものであり、またいわゆる財政民主主義の原理もしかく硬直的なものではないと考えるので、この見解には直ちに賛同することができない。
(5) 全林野事件三小昭六二・三・二〇判決の坂上裁判官の意見
私は、公労法一七条の規定が、憲法二八条に違反するものでないとの確立された判例に、あえて異を唱えるものではないが、五・四判決が、「右の理は、公労法の適用を受ける五現業及び三公社の職員についても、直ちに又は基本的に妥当するものということができる。」とすることに、更には、右判決が、公務員の地位の特殊性について論じ、その勤務条件の決定に関する憲法上の地位に言及するのは理解できるものの、その故に、団体交渉権の保障はなく、争議権もまた、憲法上当然に保障されているものとはいえないと結論することに、いささかの疑問なきを得ない。等しく公に奉仕すべき立場であるといっても、非現業公務員と、民間の勤労者と同質の業務に従事するのが通常である現業公務員等との間には、その職責、ひいては、その提供すべき労務の内容に質的な差があることを認めないわけにはいかないのである。もとより、現業公務員等の勤務条件についても、勤務条件法定主義、財政民主主義からする制約があるべきことは当然であるが、国会の議決に至るまでの過程において、団体交渉の余地が存することはいうまでもない(公労法八条はこれを当然としている。)ところであり、それを有効ならしめるため争議権を認めても、勤務条件法定主義にも財政民主主義にも反するものではない。
私は、憲法二八条の団体交渉権・争議権の保障が、公務員、特に現業公務員等に及ぶか否かは、やはり、同条が勤労者に対して保護している権利と、公務員としての立場のもつ高い公共性の故に、その団体行動を制限することによって保護される国民生活全体の利益とを比較衡量して決すべきものであると考える。そして、現業公務員等も国民全体の奉仕者であり、現実に、現業公務員等の罷業、怠業等が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれが大であることの故に、現業公務員等の争議行為を禁じた公労法一七条一項の規定は、憲法二八条に違反するものでないとの結論を支持するものである。私は、一〇・二六判決が、憲法二八条の保障する労働基本権には、国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然の内在的制約として内包していること、しかし、具体的にどのような制約が合憲とされるかについては、慎重に決定する必要があるとして、考慮すべき条件について説示するところに賛成である。
(6) 北九州市病院局事件三小平元・四・二五判決の伊藤裁判官の意見
一、本件は、地公法三七条一項、地公労法一一条一項に違反してされた争議行為を理由として、労働組合の役員である上告人らに対して行われた懲戒処分をめぐる訴訟であり、右条項の違憲の主張が論旨の中心をなしている。地公労法一一条一項の規定の合憲性に関してはまだ当裁判所大法廷の判決は存在しない。多数意見は、五・二一判決に従い、地公法三七条一項の規定を合憲とし、また、公共企業体等(現在は国営企業)の職員について争議行為を禁止する公労法(現在は国営企業労働関係法)一七条一項の規定が憲法二八条に違反しないとする五・四判決を根拠とし、その趣旨に徴して、地公労法一一条一項の規定を合憲と判示している。私は、右争議行為禁止規定を法令として合憲とする多数意見に異論をもつものではないが、公共部門の勤労者の労働基本権にきびしい態度をとる一連の当裁判所の判例はなお妥当性をもつといえるか、かりに妥当な憲法解釈であるとしてもその射程範囲をどう考えるべきか、右争議行為禁止規定が違憲無効でないとしても、右禁止違反に対する制裁として刑事罰を加え、あるいは懲戒処分を行うについては、憲法の保障する労働基本権との関係で一定の制約があるのではないか、またこのような制裁を課することが違憲となる場合もありうるのではないかなどの諸点は、検討に値すると思われるので、以下において、やや立ち入って私の見解を述べ、その上で本件懲戒処分の適否についての私の見解を述べることとしたい。
二(1) 公務員もまた勤労者としての自己の労務を提供して生活の資を得ているのであって、一般の勤労者と異なるところはなく、憲法二八条にいう勤労者に当たり、当然に労働基本権が保障されている。このことは当裁判所の累次の判例もすべて認めているところであり、非現業の国家公務員、国営企業の職員、非現業の地方公務員、地方公営企業の職員(以下、一括して「公務員等」という。)のいかんを問わず、そう考えてよい。もとより公務員等はその勤務の性質上労働基本権に制約のあることはいうまでもないが、それは一般の私企業の労働者に比して制約が大きいということにとどまり、基本的人権である以上、争議権を含めてその保障をできる限り広く認めるのが憲法の趣旨にかなうというべきである。したがって、公務員が憲法二八条の勤労者に入らないという解釈をとるのであればともかく、そこに含まれるとする以上、実質上労働基本権を否定するに等しい解釈運用は許されないのである。また、労働基本権にどの程度の制約を加えるかの決定は立法政策にゆだねられるところが少なくないが、憲法上その制約が是認されるためにはそれだけの合理的理由が必要であって、それを欠くときは憲法に反するという見地をとるべきであり、また、立法が労働基本権に含まれる権利を公務員等に付与している場合、これを立法の裁量によって与えられたもので憲法もそれを許容しているというような観点でとらえるのではなく、立法が憲法の趣旨を実現しているものと評価すべきものと思われる。多数意見の依拠する五・四判決をはじめとして公共部門の労働基本権の制約を合憲とする諸判例は、違憲の主張を排斥するためではあるが、公務員等の労働基本権を抑制するために働く論拠(これらについてはのちに検討する。)を追求するに急であって、それが基本的人権であるということについての配慮が不足しているのではないかという反省が望まれるのではなかろうか。
(2) 公務員等の労働基本権が私企業の労働者のそれに比して大きな制約を受けることは承認するとしても、公務員等を一律に考えることの当否が問題となる。公務員等の職務内容は公共の利益に奉仕するものであり、その職務の懈怠があれば公務の運営を阻害し、公共の利益を損なうおそれがあることはたしかであるが、公務員等の職務の公共性の程度はさまざまであり、その懈怠の結果も多種多様である。ある種の公務員の職務の懈怠は国家社会の安全を脅かす可能性があると考えられ、これについて争議権はもとより他の労働基本権も厳しく制限されざるをえない。他方で、国や地方公共団体の行う事務が益々増大し、公務員等の大部分を占める者の行う職務は一般福祉施設や経済活動にかかわる事務であり、それらの事務運営が阻害されることの公共の利益への影響も均一ではない。ここから労働基本権とくに争議権を一律に規制することが憲法上正当性をもつかどうかが問われることになろうが、少なくとも右のような職務の多様性は、争議行為禁止の法の具体的適用において無視することはできないであろう。地方公務員の扱う事務も、国家公務員のそれと相違ないものが少なくないが、すべて同じと考えてよいかどうかも問題である。そして本件で問題になる地方公営企業の職員及び単純労務を行う職員(これは一般職の地方公務員であるが、地公労法附則四項の規程によって地公労法が準用される。)の従事する業務は、公共的性質を有する私企業のそれにちかく、その公共性の度合は、労働関係調整法において公益事業とされている事業等と比べ、同等かそれより低いものが多いのである。公務員等の争議行為の違法性を考えるにあたっては、このような業務の差のあることを意識して具体的事案に即して判断すべきであり、公務員等を画一的に考えることは相当でなく、五・四判決が是認されるとしても、その抽象的論理をもって直ちに地方公務員とくに地公労法の適用準用をうける職員にも及ぶとするのは即断にすぎよう。なお、実定法上も、地公労法は、職員に対して争議行為を禁止しているが、団結権(五条)はもとより団体交渉権、団体協約締結権(七条)を認めており、さらに締結された協約が条例や規則に抵触したとき、その抵触を解消するために条例の改正等に係る議案を議会に付議し、規則の改正等のための措置をとるべきことが定められている(八条、九条)のは、憲法の趣旨に沿うものであり、かつ、地方公営企業の職員の特殊性に着目しているものといえるのである。
四、(ママ)地公法三七条一項、地公労法一一条一項の規定が法令違憲といえないとしても、右争議行為禁止に違反した者に対して課せられる制裁措置については、必要な限度を超えないように十分に配慮がなされなければならない。右規定は一律全面的に争議行為を禁止しているから、職員が争議行為を行った場合には原則として違法の評価を免れないが、その違法性の程度については、憲法二八条に定める労働基本権の保障により保護しようとする法益と地公法、地公労法が職員について争議行為を禁止することによって実現しようとする法益との比較衡量により、両者の要請を調和させる見地からこれを評価すべきものであり、その結果は、違法性が強い場合もあり、比較的弱い場合もあろう。したがって、右規定に違反して争議行為を行った者に対し懲戒処分を行うかどうか、行うとしていかなる懲戒処分を選択するかについては、右争議行為の違法性の程度に応じ、これと均衡を失することのないように決定されなければならない(前掲最高裁昭和六二年三月二〇日第三小法廷判決における私の補足意見参照)。さらに、例外的に具体的事情のもとで右争議行為禁止規定違反に対して懲戒処分を課することが労働基本権を侵害するものとして違憲となる場合がないかという点も問題となるところである。争議行為を禁止する法令が合憲であるからといってその違反を理由として直ちにそれが地公法二九条の懲戒処分事由にあたるとしてその処分を正当化するという単線的な論理は成立しないのである。そして、争議行為の違法性の程度について評価を行う場合の基準となるべきものを明らかにし、また適用違憲を考える余地があるかどうかを判断するためには、争議行為の禁止の法令を合憲とする論拠についてその正当性の範囲を検討しておく必要がある。その論拠については、国営企業についての判示であるが、五・四判決の挙示する合憲のための論拠を検討するのが便宜であろう。
(1) 五・四判決が合憲の理由として最も重視しているとみられるのは、公務員は憲法八三条に示される財政民主主義にのっとり、法律と予算の形でその勤務条件を決定される地位にあるとするところである。この理由は非現業の国家公務員についても妥当するし、非現業の地方公務員、地方公営企業の職員も同様である(五・二一判決は、財政民主主義の原則が地方公共団体についても妥当することを前提としている)。この見地から公務員等に対しては労使による勤務条件の共同決定を内容とする団体交渉権も、その交渉の過程の一環として予定される争議権も憲法上当然に保障されているものでなく、勤務条件は、国会や地方議会が法律、条例、予算をもって決定すべきものとされるのである。
この論拠は憲法上の基本原則である議会制民主主義を基礎としつつ、公務員等の勤務条件は憲法上すべての国民(住民)の全体の意見を代表する国会(地方議会)の決定にゆだねられるものとし、団体交渉によって決定することはこの原則に違背するものであり、そこから争議権も保障を受けられないのであって、この点は私企業において労使間の自由な交渉で勤務条件が決定されるのと本質的に違うところであると考えるものであり、公務員等に対し争議行為を禁止する法令の合憲の論拠として有力なものと考えてよい。しかし、この論拠をもって公共部門における争議行為を一律全面的に禁止し、すべての場合に適用しても違憲の問題を生じないとするに十分であるとは思われない。この考え方によれば、公労法や地公労法が団体交渉権、労働協約締結権を定めているが、これは立法裁量によって法律をもって与えられた権利にすぎなくなり、公務員等は、団結権は別として、それ以外の労働基本権を亨(ママ)有していないこととなり、それが憲法二八条にいう勤労者に当たるということと矛盾する感を免れない。憲法七三条四号や八三条の規定は、たしかに公務員の勤務条件のすべてが法律や予算で決定される原則を示しているようにみえるが、それらの規定はそもそもかつて天皇大権事項であったものを修正し、民主的コントロールのもとにおこうとしたものであるし、勤務条件の大綱は国会が定めなければならないとしても、その範囲内で団体交渉で定めることを排除するものではなく、およそ勤務条件のすべてを国会の自由な決定にゆだねるとする論拠として十全なものとはいえない。いわゆる財政民主主義の原理も憲法における抽象的なひとつの原則であるけれども、それは硬直した内容のものではない(最高裁昭和五三年(オ)八二八号同五六年四月九日第一小法廷判決・民集三五巻三号四七七頁における中村裁判官の補足意見参照)。公務員等の勤務条件を国会が自由に定めうる議会制民主主義のもとであっても、労働基本権の保障もまた憲法上の要請である以上、両者を調和的に実現することが必要であり、またそれが可能である。この調和をどのように実現するかは国会の立法上の裁量にまつところが大きいとしても、憲法二八条の要請に十分に配慮することが求められる。そして現に欧米先進諸国において、わが国と同様に財政民主主義の原則をとりながら公務員の団体交渉権、争議権をわが国のように制限していない例の多いことは、両者を調和的に実現できることを示しているものといってよい。したがって財政民主主義、勤務条件法定主義といっても直ちに争議行為のすべてを禁止する論拠となりうるものと即断すべきではない。
(2) 公務員等の勤務の内容が公共性を有することはいうまでもない。地方公営企業にあっても、まさにその業務の公共性の故をもって公営とされているのであり、職員の業務は公益上の目的をもつものであり、したがってその業務の停廃は、国民(住民)全体の生活の利益を阻害するものといえる。この点が地方公営企業の職員を含めて公務員等に対し争議権を否定する理由として有力なものであり、(1)に述べたところは、団体交渉によって勤務条件を決定することが認められない点を通じて、団体交渉と連動する争議権を否認する論理であるのに対し、この職務の公共性は、まさに直接的に争議行為を認めない根拠となりうるのであって、私もまた争議権の制限の合憲の理由は主としてここにあると考えている。
しかし、すでに指摘したように、公務員等の勤務内容は千差万別であるところからその勤務のもつ公共性には大きな程度の差があることは否めない。国民全体の利益という観念は抽象的であり、争議行為とその利益とのかかわりは一様ではない。具体的状況のもとで業務の停廃がどのような影響を国民生活に及ぼすかによって、当該争議行為の違法性の程度は左右されるものであるというべきであるから、右争議行為の影響を考えることなしに、禁止された争議行為を行ったことが直ちに懲戒処分に値するとか、あるいは一定の種類、程度の懲戒処分をもってのぞむことが相当であるとするのは即断にすぎよう。
(7) 埼玉県教組事件三小平二・四・一七判決の園部裁判官の意見
私は、地公法三七条一項、六一条四号の規定と憲法二八条等との関係に関する法理論については、多数意見と見解を異にしており、一〇・二六判決を継承した四・二判決のとる見解の基調に従うものである。すなわち、多数意見が引用する近時の当審判例のように、財政民主主義等の理由から直ちに公務員の団体交渉権及び争議権が憲法上当然に保障されているものでないとの結論を導くのは、いささか性急な理論構成というべきであり、公務員も含めた勤労者に対する憲法上の労働基本権の保障が国民一般の憲法上の諸利益の亨(ママ)受と対立する関係にある場合には、両者の均衡と調和という観点から、具体的な事案に応じ、可能な範囲において、合理的な解釈を施すことが必要である。そして、本件における地方公務員の争議禁止規定及びこれに関連する処罰規定についても、当面は、右のような憲法解釈の見地から、いわゆる制限解釈を施して適用することが望ましいと考えるのである。
ところで、本件で問題となる争議行為は、埼玉県教職員組合傘下の教職員により埼玉県全域の公立小・中学校で全一日にわたって実施された同盟罷業であり、必ずしも小規模のものであるとはいえないが、他方、その目的は、主として賃金の大幅引上げの点にあったものと認められること、右同盟罷業がいわゆる単純不作為にとどまるものであって、暴力の行使などの行き過ぎた行為を伴わないものであったこと、学校教育という職務は一定の弾力性を有するものであるから、右同盟罷業によって年間計画の実施に一日間の空白をもたらしたことが、直ちに国民生活に重大な支障を及ぼすこととなったとまではいえないこと等の諸点を考慮すると、右同盟罷業が強度の違法性を帯びたものであったとは認められない。また、被告人は、同組合の中央執行委員長という立場において、関係役員らとともに右同盟罷業に関する指令及び指示を傘下の組合員に伝達したにとどまるものであって、その行為は、同組合の行う同盟罷業に通常随伴して行われる程度のものであったと認められ、被告人のあおりの態様が格別強度の違法性を帯びていたとの形跡もない。
このように見てくると、被告の本件行為は、地公法六一条四号にいう争議行為のあおりには該当せず、刑事制裁の対象にならないものと解するのが相当である。
第二章 地公法三七条一項は憲法二八条に違反する(その二)
―国際的労働常識からみた憲法二八条の解釈―
一 問題点の所在
1 労働基本権保障の国際的普遍性
今日公務員を含む勤労者の労働基本権の保障は、国際的に普遍性を持つ。
まずILOは、一九四八年には「結社の自由及び団結権の保護に関する条約」(ILO八七条約)、一九四九年には「団結権及び団体交渉権についての原則の適用に関する条約」(ILO九八号条約)、そして一九七八年には「公務における団結権の保護及び雇用条件の決定のためにの手続きに関する条約」(ILO一五一号条約)を採択し、その間、ILOの機関である結社の自由委員会、実情調査調停委員会並びに条約勧告適用専門委員会が、これらの条約の解釈適用として、ストライキ権が結社の自由の重要な一環をなすものであり、これを制限することはきびしく制約されるという見解をくりかえし明らかにするとともに、公務員についても一律に団体交渉権・ストライキ権の保障外とすることは右各条約に反することを明確に示してきている。
また、一九六六年のILOユネスコの「教員の地位に関する勧告」は、その八二項ないし八四項で、国公立学校の教員たると私立学校の教員たるとを問わず、すべての教員団体に団体交渉権と争議権を保障している。
更に、一九六六年国連総会では「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(A規約)が採択され、その八条一項d号で公務員を除外することなく「同盟罷業をする権利」を、「人間の固有の尊厳に由来する」(同規約前文)人権の一として保障している。アメリカ・ヨーロッパ諸国を含む諸外国(とくに先進諸国)の動向もこのような国連やILOの動向と、基本的には軌を一にしている。
以上のように労働基本権の保障とそれについての解釈が国際的に普遍的な性格を有し、今日これらにより国際労働常識が形成されていることに鑑みると、わが国憲法二八条の解釈においても、広く国際的動向を視野に入れ、国際労働常識と矛盾することのない普遍的妥当性を有する解釈をするのが、国際協調を大きな理念の一つとする現在の日本国憲法にあっては当然のことといわなければならない。
2 最高裁の見解と国際労働常識
最高裁も公務員労働基本権に関する判断・解釈をするにあたって、ILOの見解や外国の法制における理論を大きな裏付けの一つとしている(引用する見解や法制が偏頗であったり誤っていることはさておき)。
たとえば四・二五判決は、「労働関係における公務員の地位の特殊性は、国際的にも一般に是認されているところである」として、ILO九八号条約六条の規定や六〇号事件についての結社の自由委員会の見解を引用している。そして、「以上のように、公務員の争議行為は、公務員の地位の特殊性と勤労者を含めた国民全体の共同利益の保障という見地から、一般私企業におけるとは異なる制約に服すべきものとなしうることは当然であり、また、このことは、国際的視野に立っても肯定されているところなのである」と結論づけている。
また、石田和外裁判官ら七裁判官の補足意見は、さらに、西ドイツ、カナダ連邦、アメリカのペンシルバニア州、ハワイ州などの例をあげて、自説の裏づけとしている。
また四・二五判決や五・四判決が、アメリカにおける一部の見解――テーラー・レポートやウェリントン、ウインターの見解を取り入れたものであることは明らかである(最高裁判所判例解説昭和五二年度刑事篇「9」事件一三三頁以下)。
このような国際的にも妥結する解釈をめざそうとする最高裁の姿勢自体は大いに是とするところである。
しかし、ILO九八号条約六条の規定が公務員全てについて一律に争議権を制約することを肯定しているとした点は、明らかにILO九八号条約自身の確立した見解に反するものであり、引用する六〇号事件に関する結社の自由委員会の見解(一九五四年)はその後のILOの見解の発展により先例性をもはや失っている見解である(その後の五・二一判決や五・四判決では右見解にふれられていない)。
また七裁判官の補足意見があげている各法制はいずれも公務員のストライキを全面一律に禁止していない法制例であり、全面一律禁止の現行法の合憲性をかえって疑わせるものである。また、四・二五判決や五・四判決が大いに依拠するテーラー委員会報告書やウェリントン及びウインター両教授の研究のうち、前者は、労使紛争を解決するための協約締結権を含む団体交渉制度の導入と交渉が行き詰った場合の紛争解決手続きとを提案するもので、公務員の労使紛争に一律全面的ストライキ禁止法制をそのまま適用することによってのみ対処することを可とする五・四判決とは基本的発想を異にする。更に両者に共通するいわゆる「政治過程歪曲論」は実証性を欠くものであるとして、米国においても学会、実務家の支持を得ている理論ではない。
そこで、現在における国際的な動向を正視し、国際的労働常識に添った普遍妥当性を有する憲法二八条解釈こそが必要である。その結果、公務員につき一律全面的に争議権を認めない地公法三七条一項が公務員を含む勤労者の労働基本権を保障する憲法二八条に違反することは明白である。
以下、国際的動向および主要国における労働法制の今日的概況を示し、国際的労働常識(基準)を明らかにする。
二 ILO八七号条約と公務員のストライキ権の関係
原判決は、ILO八七号条約がもともとストライキ権とは関係がないものとして採択され批准されたものであるとか、ILO九八号条約も仏文正典によれば団体交渉及び争議権保障から除外される公務員の範囲につき特段の限定が付されていない、と述べているが、これは全く事実に反するうえ、今日のILOにおける同条約の解釈とも遊離しているといわなければならない。
この点を明らかにするため、まず、はじめに、右条約の採択・批准の経緯を明らかにしたうえで、結社の自由委員会や条約勧告適用専門家委員会などILOの諸機関が示している条約とストライキ権の関係を明らかにする。なお、ILO及び諸機関の概要とこれら諸機関の見解の意義と性格については第一審最終準備書面(昭和五九年一二月四日付)一一四~一二〇頁、一三四~一四二頁で言及したところである。
1 八七号条約採択・批准の経緯とストライキ権の取扱い
(一) 八七号条約採択の経緯
八七号条約は、一九四八年のILO総会で採択されたものであるが、この総会に先立って、事務局は加盟各国に対するアンケートの中で、同条約は「公務員」のストライキ権を取り扱うものではないとの一ケ条を入れるとの提案をしていたのであるが、これに対する回答の多くは否定的であった。その理由は、かかる条項を入れるとすれば、その反面において「公務員」以外の労働者のストライキ権を認めることになるので、その点を明示的に触れることは避けたいという配慮に出たものであった。その背景には、当時は世界人権宣言(一九四八年)の人権のカタログの中にもストライキ権は明記されておらず、未だストライキ権が基本的人権として必ずしも定着していなかったという時代状況があった。
他方で、ILOは一九四八年以降、団結権保障を具体化するために、一定のスケジュールに基づいて条約・勧告を作っていったのであるが、その最初の条約が八七号条約であり、その後、団体交渉権、協約締結権に関する九八号条約が採択され、その条約をより実効化するために九一号勧告・争議行為の調停・仲裁に関する九二号勧告などが採択されていくことになる。
このような八七号条約採択時の経緯と当時の時代状況及びその後の団結権保障に関する条約・勧告作成のスケジュールに照らすと、右採択時においては、条約の明文上はストライキ権について触れることはせず、同条約がストライキ権を扱うものとも扱わないも(ママ)ものとも確定しなかったというにとどまる。そして、八七号条約採択後のILO自身の活動は争議権を含めて労働組合活動の範囲を拡大する方向に発展していったのであり、右のような採択時の事情のゆえに、その後の進展の中で労働組合権の中身が拡充されていくことは必然であった(その内容については後述する)。
(二) 我国における八七号条約批准の際の経緯
ILO条約については、条約に明文の規定がない限り、条約中の特定の条項を受け入れない旨の留保宣言をしたり、独自の解釈宣言をしたりする余地はない。これは、国家だけの利益が具現されているわけではない三者構成の総会というものにより採択された条約である、という理由によるものだが、より一般的にいえば、諸条約の全体的目的と留保とは相いれないものだからである(<証拠略>バルティコス「国際労働基準とILO」三四五頁)。
とりわけ、八七号条約が保障する結社の自由の原則は、ILO憲章の中に規定されたものであり、ILO加盟国は、その憲章を受諾している以上は、これを批准すると否とにかかわりなく当然に遵守しなければならないものとされている。その理由は、「労働組合のための結社の自由についての基準は、国際労働法の中でも特別な地位を占めている。なぜならば、それは労働者が自己の利益を守るための基本的な手段であり、一般的な結社の自由権の一つの側面、つまり基本的人権の一つと考えられるからである。また、ILOの三者構成にとっても極めて重要である」からである(<証拠略>)。
したがって、ILO八七号条約について、わが国が同条約の一部について留保宣言をしたり、その解釈としてILO自身が確立した諸原則と異なる独自の解釈宣言をするなどということはありえないことである。現に、わが国が同条約の批准に際してかかる留保宣言や解釈宣言をなしえた事実もない。
ILO八七号条約批准に伴う関係国内法の改正において、国公法・地公法上の争議行為全面一律禁止法制が維持されたことは事実であるが、そのことは右禁止法制が同条約と矛盾、抵触するものではないことが確認された結果ではなく、事実はむしろ逆で、矛盾、抵触することがその審議経過において、また、その後の歴史的経緯の中で明らかにされた。
八七号条約の批准問題は、わが国がILOに再加盟した直後から約八年間にわたる懸案事項であったが、政府・与党がこれをサボタージュするという事態が続き、これに対するILOを含む国内外からの批准が高まる中で、昭和四〇年に至ってようやく批准された。しかるに、右批准と表裏をなすものとして提出された政府・与党の同条約の批准に伴う関係国内法の改正案に対しては、争議権の問題を含めてその内容が不十分ないしは「改悪」であるとする野党側の反対がきわめて強く、結局は自民党単独による強行採決という形で可決された。
ところが、これに対する野党側の強硬な反発のために国会審議が中断を余儀なくされ、衆議院議長の仲介で与野党間で協議した結果、公務員労働関係をめぐる諸問題については、総理大臣の諮問機関としての公務員制度審議会において審議を継続することとし、その答申が出されるまでは右強行採決によって成立した関係国内法の実施は棚上げにすることが確認されて右混乱が収拾された。そして、争議権問題の取扱いは、公務員制度審議会における審議の重要な柱として位置づけられたのである。
このような国会審議の経過に照らせば、八七号条約の批准に際しての関係国内法の改正において、公務員の争議行為全面一律禁止法制がそのまま維持されたのは事実であるが、それは、同条約がストライキ権に無関係であることが確認されていることを示すものではない。むしろ、その点は引続き公務員制度審議会において検討することとされたものであって、現に、その後の審議会での検討が続けられてきたのである。
このことは、わが国のILO八七号条約批准・関係国内法改正直後の昭和四〇年八月に公表されたドライヤー報告からも明らかである。
すなわち、ドライヤー報告では、結社の自由委員会が八七号条約の解釈として定立した諸原則(ストライキ権と結社の自由の関係、ストライキ権の制限・禁止が許容される範囲、ストライキ権の制限・禁止に対する代償措置の必要性とその要件)を再確認したうえで、右諸原則に照らして、わが国の公共部門におけるストライキ権の禁止の範囲が広範囲に過ぎること、代償措置制度が不備であること、とりわけ人事委員会の構成や権限は速やかに再検討を必要とすること等を具体的に指摘し、公務員制度審議会ではこれらの指摘を十分に踏まえて審議を行い、速やかに改善が図られることを強く要請していたのである(例えば同報告二二四八項の20、21、26~28、36~40等)。
(三) 以上によれば、原判決の前記判断はかかる歴史的経緯を無視した誤謬といわなければならない。
2 八七号条約におけるストライキ権の承認
(一) ILOの確立した見解
採択時八七号条約がストライキ権を扱うことは明確にされていなかったが、その後の結社の自由委員会や条約勧告適用専門家委員会などの見解の発展によっては、今日では、八七号条約はストライキ権と関連をもつ条約であるとするのがILO自身の一般的認識として確立している。
この点について、一九四九年から一九八一年までILO事務局に勤務し、一九七六年からは事務局長補佐の地位にあったニコラス・バルティコスは、その前掲書(<証拠略>)の中で次のように指摘している(一一八~一一九頁)。
「八七号条約は、ストライキ権についてはっきりとは規定していないが、この問題に関する判例法ともいうべきものがその監視機構の活動によって徐々に形成されてきた。まず専門家委員会は、条約三条、八条、一〇条の規定にもとづいて考えた場合、一般的なストライキ禁止は労働組合がその組合員の利益を守ったり、発展させたりする活動を大幅に制限することになるし、労働組合がその活動を組織していくうえで支障となると認定した。結社の自由委員会もまた、この問題に関する提訴を検討していく中から労働者及びその団体のストライキの権利は、その利益を守るための正当な方法と認められている、ということをたびたび指摘してきた。しかしこの二つの機関とも、ある特定の場合にはストライキ権の制限が認められるとしている。その場合とは公務あるいは基幹産業において、また非常事態あるいは交渉、斡旋及び仲裁がなされるまでの間、その他一定の手続的条件が満たされるまでの間などである。もっとも、結社の自由委員会はこういった制限や禁止がなされる場合に、労働者の権利を守るための基本的な手段が奪われたことに対する十分な保障措置が講じられていなければならないことを強調した。この保障措置としては、適切で公平かつ迅速な斡旋及び仲裁手続であり、そのどの段階においても当事者が参加でき、全ての場合においてその裁定が両当事者を拘束するような形をとっていなければならない。そしてこの裁定は完全にそして迅速に実施されなければならない。」
右に言う「判例法」を集大成したものが
「FLEEDOM OF ASSOCIATI-ON」(結社の自由)
-Digest of decisions and princi-ples of Freedom of Association Committee of the Governing Body of the ILO(ILO理事会結社の自由委員会の採決と原則の要約)(以下「ダイジェスト」という)
であり、これこそがILO八七号条約とストライキ権についての今日のILOの確立した見解と言うべきものである。
(二) ストライキ権についての申立に対する結社の自由委員会の権限
結社の自由委員会は、一七七号事件、一九一号事件など、ストライキ権の制限・禁止に関する苦情申し立を早い時期から受け付けてその審査を行ってきた。同委員会はその理由について、「委員会は、ストライキ権にかんする申立ては、それが労働組合権の行使の問題にかかわるかぎりにおいて、管轄外ではない」との見解を繰り返し述べてきた。
右の「労働組合権の行使の問題にかかわるかぎり」というのは、「純粋に政治的ストライキと、交渉がおこなわれるはるか以前からシステマティツクに決定されているストライキは、結社の自由の原則の範囲にふくまれない」(ダイジェスト三七二項)ことを意味している。そして、「申し立てられたストライキ権の行使に関する制限禁止が労働組合権を侵害したか否かは、申立と政府の回答によって結社の自由委員会自らが判断するのであって、実際上結社の自由委員会は、ストライキ権の行使に関するすべての申立を審査している」(戸田義男『ILOにおける労働組合権の保証』三七一頁)のであり、現に、これまでにきわめて多数のストライキ権に関する申立はすべて結社の自由委員会で審査され、その審査を通じて、ストライキ権についてのいわば判例法と言うべきものが形成されるに至っているのである。
(三) ストライキ権の承認
(1) 結社の自由委員会は、ストライキ権の制限・禁止についての申立を自らの権限として審査する中で、ストライキ権がILO八七号条約に規定された結社の自由=労働組合権の重要な一部であることを比較的早い時期から繰り返し明言してきた。結社の自由委員会設置の翌年である一九五二年に右基本原則を述べ、以降、この原則を多数の事件において明確かつ具体的に、繰り返し断言している。ダイジェストは、この点について、次のように要約している。
「三六二 委員会は常に、労働者とその団体によるストライキをする権利を、その経済的社会的利益の防衛のための合法的手段の一つとして承認してきている。
三六三 ストライキをする権利は、それを通じて労働者とその団体が、かれらの経済的社会的利益を維持促進することができる不可欠な手段の一つである。
三六四 委員会は常に、ストライキをする権利が労働者とその団体の基本的な権利を構成するものとみなしてきたが、それは、ストライキをする権利が彼等の経済的利益の防衛のための手段として用いられる限りにおいてのみ、そのようなものとみなしている。」
そして、ストライキの全面的禁止が八七号条約で保障された結社の自由の原則に反することについて、ダイジェストは次のように指摘している。
「四一六 ストライキの全面禁止は、労働組合がその組合員の利益を維持、促進するために用うる措置(八七号条約第一〇条)および、その活動を組織する権利(第三条)に対する重大な制約である。
四一七 立法がストライキについて直接または間接に絶対的禁止を課しているばあい、本委員会は、そのような禁止が労働組合の活動可能性についての重要な制約を構成するものであって、一般的に承認されている結社の自由の原則に適合するとは思われないとする条約勧告適用専門家委員会の見解をうらがきしてきている。」
(2) 条約勧告適用専門家委員会もすでに一九五九年の一般調査報告の中で、次のように述べて、ストライキ権の制限・禁止がILO八七号条約に抵触する問題であることを明確に指摘していた。
「官吏以外の者で、公権力の名のもとに職務に従事する労働者によるストライキの禁止問題は、しばしばこみいった微妙な問題を提起している。このような禁止が、ときに、労働組合の活動可能性にたいする相当な制限を構成することはたしかである。……それがどうあろうとも、禁止は八七号条約……第八条二項に……そして特に、その職業的な利益を守るための労働組合の活動の自由(三条一項)に抵触する可能性がある。したがって、特定の労働者がストライキを禁止される場合、常に、それらの労働者の利益を完全に守るために適当な保障が与えられることが必要である。」
このことは、一九七三年の一般調査報告でも確認され一九八三年の一般調査報告においても再び確認されたものである。
八七号条約が結社の自由ないし団結権を保護すべきものとしている「労働者団体」の目的は「労働者の利益を増進し、かつ擁護すること」(一〇条)にある。労働組合がこのような目的を達成するための手段は、団結し、使用者と対等の立場に立って団体交渉をすることにほかならず、右団体交渉における実質的な労使対等を保持するためにストライキに訴えるというのは当然の帰結であって、ストライキ権は、労働組合の目的を達成するための不可欠の手段として、その自主的活動の重要な一環をなすものと位置づけられることは避けられない。
このような意味で、ストライキ権が「労働者団体……は、その規約及び規則を作成し、自由にその代表者を選び、その管理及び活動について定め、並びにその計画を策定する権利」(三条一項)から排除されるべき理由はなく、これを禁止・制限することは、「公の機関は、この権利を制限し又はこの権利の合法的な行使を妨げるようないかなる干渉をも差し控えなければならない」(同条二項)との規定や「国内法令は、この条約に規定する保障を阻害するようなものであってはならず、またこれを阻害するように適用してはならない」(八条二項)との規定に抵触する可能性を否定することはできない筋合いである。
かくて、ILOは、八七号条約の解釈として、ストライキ権が労働組合権の本質的な要素であることを明確に承認するに至っている。
(四) 現在の到達点
この問題についてのILOの到達点というべき見解が一九八三年の条約勧告適用専門家委員会の報告の中で集約的に述べられている。そこで、右報告の要点を紹介しておくこととする。
(1) 条約勧告適用専門家委員会の報告
ILOの条約勧告適用専門家委員会は、一九八三(昭和五八)年の第六九回総会に『結社の自由、団結権と団体交渉に関する条約(八七号・九八号)及び農村労働者団体に関する条約(一四一号)と勧告(一四九号)の適用に関する一般調査』と題する報告を提出した。これは、ILO憲章一九条に基づき、標題の条約・勧告に関して、加盟国におけるその適用状況を包括的に調査し、検討した結果をまとめたものである(条約勧告適用専門家委員会の任務として、ILO憲章一九条に基づく「一般調査」と同二二条に基づく「年次報告」の二種類があること及びその意義については、前掲準備書面一一六頁)。
右報告の全文を登載したものが日本評論社刊『結社の自由と団体交渉』である。
報告の第一部「結社の自由」では、主として八七号条約の解釈とその実施状況の調査結果について述べており、その第七章では「労働者団体が、その運営と活動を組織し、その方針を作成する権利」との標題のもとに、八七号条約第三条の問題を中心に展開され、このうち一九九項から二二六項においてストライキ権について触れている。
(2) その要点は以下のとおりである。
まず、ストライキ権の意義について次のように指摘している(二〇〇項)。
「本委員会は、ストライキ権が、経済的・社会的利益の向上と擁護のために、労働者とその団体が用いうる不可欠な手段の一つであると考える。これらの利益は、よりよい労働条件の獲得と職業的性格をもつ集団的要求を追求するだけでなく、経済的・社会的政策問題と、労働者にとっての直接的関心事である、あらゆる種類の労働問題の解決を求めるものとならざるをえない。」
そして、ストライキ権の全面的禁止が八七号条約三条、一〇条に抵触する旨を次のように述べている(二〇五項)。
「ストライキ権の全面的禁止は、組合員の利益を向上かつ擁護するために(八七号条約一〇条)労働組合が活用しうる手段とその活動を組織する権利(三条)に重大な制約を加えており、したがって、結社の自由の諸原則とはあいいれない」
そのうえで、ストライキ権の制限・禁止が許容される場合とその際に設けられるべき代償措置について次のように指摘している(二一四項)。
「本委員会の意見では、公務において、あるいは公約・準公約もしくは私的なものであるとを問わず、不可欠業務において、ストライキ権を制限ないし禁止しうるという原則は、法規が公務や不可欠業務をあまりにも広範囲に定義するばあいには、無意味となってしまう。本委員会がすでに以前の一般調査において指摘したように、公的機関の代行者としてな(ママ)資格で行為する公務員や、国民全体もしくはその一部の生命、個人的安全ないし健康にたいしてその中断が危険をもたらす業務に、禁止を限定すべきである。さらに公務や不可業(ママ)務においてストライキが制限ないし禁止されているばあいには、職業上の利益を擁護する不可欠な手段の一つを否定されている労働者を保護するために、適切な保障が与えられるべきである。制限は、適切、公平かつ迅速な調停仲裁制度によって相殺されるべきであり、その手続きにおいては関係当事者があらゆる段階で参加でき、かつあらゆる事例において裁定が当事者双方を拘束すべきである。いったん下されたこの裁定は、迅速かつ全面的に実施されるべきである。
たとえば、結社の自由委員会は、病院や航空管制が不可欠業務であるとみなしてきた。しかし、同委員会はたとえば銀行、農業活動、港湾、金属、石油、タバコ、印刷、教職、ラジオおよびテレビは、厳密な意味における不可欠業務ではない、とみなしてきた。」
以上のような原則に立って、各国のストライキ権の制限などを指摘したうえ、第七章のまとめとして、「労働組合が活動を組織し、方針を作成する権利に対するもっとも一般的な制約は、……ストライキ権にかんするものと思われる」として、ストライキ権について次のように結論的に述べている(二二六項)。
「ストライキ権にかんして、全面的な禁止(時には明文による規定の結果であり多くの国のばあいのように、公的な紛争解決制度にかんする規定の累積的な結果)は、労働組合が組合員の利益を向上・擁護するのに利用しうる手段にたいする、また、その活動を組織する権利にたいする恒常的な禁止は、公的機関の役職者としての資格で行為する公務員と不可欠業務における労働者に対してのみ課するべきであり、適切、公平かつ迅速な調停仲裁手続きによって代償されなければならない。最後に、ストライキの目的と用いられる手段に関する制限は、ストライキ権行使の全面停止もしくは過剰な制限を招来しないように、十分妥当なものでなければならない。」
(3) 右報告の意義
右のとおり、ILO条約勧告適用専門家委員会は、
<1> ストライキ権は八七号条約に規定する労働組合権の不可欠の要素であり、その全面的禁止は同条約が保障する労働組合の結社の自由の権利を侵害すること。
<2> その制限・禁止が許容される職種の範囲は不可欠業務と公的機関の代行者としての資格で行動する公務員に限定されること。
<3> 右制限・禁止をする場合には、それに見合う代償措置を設けなければならないこと。
<4> その代償措置の内容としては、適切・公平な調停仲裁機関であり、かつ右機関の手続のあらゆる段階で関係当事者が参加することが保障されるとともに、その裁定は当事者を拘束し、迅速かつ完全に実施されなければならないこと。
という四つの原則をきわめて明確かつ論理的に整理して述べている。これこそが、今日のILO八七号条約の解釈の到達点であることはもとより、後に述べる国際人権的規約などともあいまって、国際的な労働常識となっているものである。
たしかに、ILO条約の解釈に関する疑義または争いは、国際司法裁判所によって決せられることとされている(ILO憲章三七条一項)。しかし、条約勧告適用専門家委員会のILO内部における格段に重要かつすぐれて専門的で権威ある地位・役割に照らし(この点については、前掲最終準備書面三七頁~四二頁参照)、八七号条約等の解釈に関する同委員会の右見解は、実際上、ILO自身の見解ないしは実質的にこれと同視できるものとして、国際的には決定的に大きな重みをもつものである。したがって、それは、労働組合運動の権利に関する現時点での国際的基準の内容を知るうえできわめて重要な資料であると言うべきである。
更に、同委員会や結社の自由委員会というILOの条約・勧告の実施に関する監視・統制機関によって積み上げられてきた見解は、国際的な最低労働基準を設定することを目的とするILOとしての基本原則であって、その内容は、この問題に関する他の国際条約や諸外国の労働基本権保障の実情などともあいまって、国際的な労働常識と言うべきものとなっているのである。憲法二八条との関係での地公法三七条一項の憲法適合性を判断するうえにおいて、わが国の裁判所としても、このような国際的労働常識を最大限尊重し、これに沿った解釈を行うのが当然である。
(4) 右見解に至る経過
ILO八七号条約がストライキ権保障をその対象とするに至った事情を要約すると次のとおりである。
前述のように、結社の自由委員会はその設置の翌年である一九五二年「ストライキ権……は、労働組合権の本質的な要素である」(イギリスージャマイカに関する二八号事件二次報告等)との見解を示し、以降この原則を繰り返し、さらに明確かつ具体的に断言する。たとえば「労働者及び労働団体のストライキ権は、それらの職業上の利益を増進し、かつ、擁護する不可欠の手段である」(チリに関する一三四号等事件二八次報告等)としている。結社の自由委員会がこのような見解を示した理由は、「大多数の国においては、ストライキは、組合員の利益を増進するための労働組合の適法な武器として認められている」(インドに関する五号事件四次報告等)との見解にみられるように、ストライキが大多数の国における共通の現象であることに根拠をおいている。
以上の結社の自由委員会の判断は、条約勧告適用専門家委員会においても、繰り返し、確認されてきた。
「すべての労働者について、一般的にストライキを禁止することは、構成員の利益を増進しかつ擁護する(八七号条約第一〇条)ための労働組合の活動可能性に対する重大な制限をなすものであるため、結社の自由の一般的原則と両立させることができず、また、この禁止は、(中略)八七号条約第八条二項に違反する恐れがある。」(一九五九年条約勧告適用専門家委員会のキューバの年次報告に対する意見)
「ストライキの一般的禁止は、労働組合が、その構成員の利益を増進しかつ擁護する(八七号条約第一〇条)ために開かれている機会、及び、労働組合がその活動について定める権利(第三条)を相当制限することとなる。これに関連し、同条約第八条が、国内法令は、この条項に規定する保障(労働組合が、その活動について定める権利を含む)を阻害するようなものであってはならず、また、これを阻害するように適用してはならないと規定していることが想起されるべきである。」(一九七三年条約勧告適用専門家委員会の「結社の自由及び団体交渉に関する総合調査(第五章・一〇七項)」)
「本委員会は、ストライキ権が、経済的社会的利益の向上と擁護のために、労働者とその団体が用いうる不可欠な手段の一つであると考える」(一九八三年条約勧告適用専門家委員会の報告・二〇〇項)
「ストライキが公務又は不可欠な業務において禁止又は制限されるならば、その職業上の利益を擁護する不可欠な手段の一つをこのように否認されている労働者に対して適切な保障が与えられなければならない。」(一九八四年条約勧告適用専門家委員会の意見・八七号条約・日本関係)
このようにして、八七号条約のILOにおける日常的な解釈・適用において、「ストライキの制限・禁止は、一定の場合には、間違いなく、結社の自由八七号条約と抵触する」、すなわち、「結社の自由 八七号条約は、一定の場合には、労働組合権の行使としてのストライキ権に対し、無関係ではない」との原則が、ILOの不動の原則として確立したのである。
3 公務員問題をめぐるILOの諸活動
右のようにして、ILO八七号条約がストライキ権問題と関連性があり、ストライキ権の一般的禁止が同条約三条一項、八条二項に抵触することが明らかにされてきたのであるが、一九六〇年代になると、ILOのストライキ権論は、とくに「公務員」問題についてより発展していった。
その背景としては、後述するストライキ権を基本的人権として明文で保障した一九六一年のヨーロッパ社会憲章や一九六六年の国際人権規約の採択とともに、これらとあいまってILO自身の「公務員」問題についての着実な活動の進展があった。そこでは、公共部門の労働者に対する労働基本権保障のあり方についての全般的な検討が重ねられ、これらの労働者も他の一般的私企業における労働者と同じように完全な労働組合の権利を有することを確認したうえで、その労働条件決定手続きへの公務員労働組合の参加手続きとしての団体交渉の必要性や公共部門におけるストライキ権の制限・禁止に対する代償として調停・仲裁手続の重要性などについての合意が得られるとともに、一五一号条約や一五九勧告に結実していった。
ことに、一五一号条約は、官公労働者に対する不当労働行為の禁止、組合の雇用条件決定への参加手続きの保障、斡旋・調停及び仲裁などの紛争解決手続きの保障など、公務員の労働基本権に対する理解の前進を反映している。ちなみに、同条約は、その前文で九八号条約と条約制定のかかわりについて、「若干の政府が多数の公的被用者の集団を同条約の適用範囲から除外して、その関係規定を適用しているとの国際労働機関の監督機関がたびたび表明した意見を考慮し」て規定されるに至ったことを表明している。これは、公務員労働者の労働基本権と民間労働者の労働基本権を基本的には同一の基盤で考えていくという結社の自由委員会や条約勧告適用専門家委員会によって確立された公務員の労働基本権のあり方についての諸原則がILOの今日的見解であり、同条約もこのような諸原則に立脚するものであることを明らかにするものである。
結社の自由委員会や条約勧告適用専門家委員会による「公務員」のストライキ権に関する見解は次項以下に述べるが、これらの見解は決して右各委員会の独自の見解ではなく、右のようなILO全体としての活動とそこで得られた合意や成果を十分に踏まえたものであった。
4 公務員のストライキ権についてのILOの諸原則(ストライキ権の制限・禁止が許容される公務などの範囲)
現判決は、団体交渉権を保障するILO九八号条約も仏文の正典によれば同条約六条(団体交渉権保障の適用除外を認める)の公務員の範囲につき特段の限定が付されていない、としている。右判断は、ILOが公務員の地位の特殊性を認めているとして、団体交渉権(但し労働条件共同決定権として歪曲して)が制限される以上争議権を承認することは相容れないとした四・二五判決に追随する結論に結びつくものである。このような判断は九八号条約六条の誤解にもとづき、公務員のストライキ全面一律禁止に関する誤った判断に至るものであるので、以下その点につき論及する。
(一) 基本原則
(1) ストライキの制限・禁止が許容される職種の範囲についてのILOの原則は、周知のとおり不可欠業務と公権力の機関として行動する公務員に限定されるというものである。
このようなILOの見解は、日本問題に関する一七九号事件についての結社の自由委員会第五四次報告をはじめとして、さまざまの文書で明らかにされているが、これらの見解は、一九六五(昭和四〇)年の実情調査調停委員会(ドライヤー委員会)の報告に集約されている。
ドライヤー報告は、次のように指摘している。
「二一三六 ストライキが国民の正常な生活に重大な障害を与える真に重要な経済分野においては、公共の利益を保護するための特別措置が必要であろう。……このような場合においては、ストライキは、解決又は救済の十分な代償的手段が設けられ、かつ、実際に満足に機能することを条件として、禁止することができる。他方において、すべての公共企業体並びに地方公営企業の活動が等しく重要であるということは、認めることはできない。比較的重要でないものにおいては、公共の利益は、すべてのストライキが等しく禁止されることを要求していない」
「二一三七 公共部門において、ストライキのみならず、一律に争議行為を禁止するというこれまでとられた政策は、批判を必要としている。一定の事業がストライキの禁止を正当とする程に公共の利益と密接な関係を有する分野においても、その他のあらゆる種類の団体行動が当然禁止されるべきであるということにならない。」
「二一三九A すべての公有企業が、公共の困難を惹起するがゆえに真に不可欠な事業と、この基準によれば不可欠でない事業とを関係法律上区別することなく、ストライキの制限に関して同一の基盤で取り扱われることは適当でない。」
「二一四一 ストライキの絶対的禁止が、その業務の中断によって社会に対してより小さな困難をもたらす公務及び企業の場合に緩和され(なければならない)」
すなわち、ドライヤー報告では、公務であると否とを問わず、ストライキの禁止・制限が許されるのは「不可欠な事業」に限定されており、公務員であるという一事をもってそのストライキ権を全面一律に禁止することを是認してはいないのである。
(2) この点に関して、ダイジェストは、結社の自由委員会の審査を通じて確立した原則を次のように摘示している。
「三九三 委員会はストライキ権が、ストライキによって国民全体にたいし重大な障害をもたらしうるかぎりにおいて、……公務または不可欠業務について、制限し、または禁止することもできることを認めてきている。」
「三九四 ストライキ権は公務―公権力の為に行為する公務員―について、または言葉の厳格な意味における不可欠業務、すなわちその中断が国民の全部または一部の生存、安全または健康をあやうくする業務について、制限し、または禁止することもできる。」
(3) 条約勧告適用専門家委員会も、一九五九年の報告において、「公権力の機関として行為する公務員」以外の公務員その他の労働者のストライキ禁止の八七条約違反性を示唆しており、一九七三年の報告においても、ストライキの禁止が認められうるのは、「一定の労働者、特に公務員及び重要産業に従事する者」としていた。
そして、一九八三年の報告では、ストライキの禁止・制限が許容される職種の範囲について、次のように明確に指摘している。
「二一四 公務において、あるいは公的・準公的もしくは私的なものであるとを問わず、不可欠業務において、ストライキ権を制限ないし禁止しうるという原則は、法規が公務や不可欠業務をあまりにも広範囲に定義するばあいには、無意味となってしまう。……公的機関の代行者としての資格で行為する公務員や、国民全体もしくはその一部の生命、個人的安全ないし健康に対してその中断が危険をもたらす業務に、禁止を限定すべきである」
(二) ILO九八号条約六条の「公務員」の解釈との関係
(1) ILO九八号条約六条は「この条約は、公務員の地位を取り扱うものではなく……」と規定しているが、ここにいう「公務員」は、公務員全体を指すものではない。このことは、同条約の正文の一つである英文自体で、またILOのこれまでの解釈によって明確にされているのであって、ILO各委員会が「九八号条約六条の公務員はすべての公務員を含む」といった解釈を承認し、すべての公務員に対するストライキの制限・禁止を無条件で容認する見解を有しているなどというのは、明らかに誤りである。原判決が拠り所とする仏文正典の「公務員」も右意味に解釈すべきことはILO自らが数多くの見解により示していることである。
(2) たとえば、たびたび引用している一九八三年の条約勧告適用専門家委員会は、九八号条約の実施状況に関する報告の中で、「公務員は八七号条約の適用を差別なしに受けるが、九八号条約第六条では、この条約が国の行政にたずさわる公務員の地位を取り扱うものではなく、またその権利あるいは身分に影響を及ぼすものと解してはならないことを規定している」(二五五項)として、その問題点を確認したうえで、次のように述べている。
「本委員会は、公務員にかんする概念はさまざまな国内法体系にもとづいてある程度異なるとはいえ、国家に雇用され、あるいは公務部門に雇用されていながらも(ある条件のもとでは、国の行政にたずさわっている公務員と同一の条件に置かれることがあるとはいえ)、公的権威の代行者として行動しない公務員をこの条約の適用範囲から除外していることは、条約の趣旨に反するものと考える」。
そして、その理由を次のように指摘している。
「このことは、この条約第六条の英文原文のなかでengaged in the administration of the State(国の行政にたずさわっている)公務員のみの除外を認めることによって、さらに明確にされているものと考える。本委員会は、この条約の規定から、国家に雇用された重要なカテゴリーの労働者が、国の行政にたずさわっている公務員と形式的に同一視されるという理由のみにもとづいて、これらの労働者を除外することを認めることはできない。もしそれを認めていたならば、この条約は、その適用範囲の多くを奪われることになろう。したがって、一方ではその職務上、直接に国の行政にたずさわっている公務員、すなわち政府の各省庁、これに匹敵する諸機関に雇用されている公務員をはじめ、このような活動において補助的な要素として行動している公務員と、他方では政府、公営企業ないし自治的公共企業に雇用されている上記以外のものとを区別しなければならない。前者のカテゴリーのみをこの条約の適用範囲から除外することができる。」
(3) 右のような見解は、何も条約勧告適用専門家委員会の独自のものでなく、結社の自由委員会のおける夥しい数の申立てについての審査を通じての確立した解釈ともなっており、両者の見解は完全に一致している。すなわち、ダイジェストによれば、以下のとおりである。
「五九七 九八号条約の第四条は、団体交渉の奨励、促進について規定しており、この規定は民間部門にも、国有化企業にも、公的機関にも適用になる―国の行政に従事する公務員(public servants en-gaged in the administration of the State)についてはその適用を排除することが可能である。」
「五九八 九八号条約(第六条)は『国の行政に従事する公務員」(public servants engaged in the administration of the State)の除外を許している。このことについて条約勧告適用専門家委員会はいろいろな国の法制度のもとで公務員の概念はある程度異なるけれども、国または公共部門に雇用されるもので、公の機関の代理人として行為しない者……を、条約の適用範囲から排除することは本条約の意味するところに反する旨指摘した。
委員会によれば、区分線は、基本的には、政府の省またはこれに対比しうる機関にいろいろな資格で雇用されている官吏と、その他の政府、公企業または独立の公共企業体などに雇用されている者との間にひかれるべきである。」
(4) この点に関して、四・二五判決は、前述のとおり結社の自由委員会第一二次報告(一九五四年六〇号事件)中の五四項において「雇用条件が法令によって定められている公務員については、多数の国において、その雇用を規制する法制中においてストライキ権は正規の条件としては否定されており、この問題のこの部分に対しこれ以上の考慮を加える理由はないと考える」と述べていることを理由として、わが国の公務員の争議行為禁止法制は国際的視野に立っても肯定される旨判示している。
しかしながら、第一二次報告の右部分の理解の仕方について、結社の自由委員会は第五四次報告(一九六一年一七九号事件)において、自ら次のように述べて、わが国における公共部門の争議行為禁止法制を無条件に容認したものではないことを明確に指摘している。
「本委員会は、当時の申立てについてそれ以上審議する必要がないと結論しながらも、必要不可欠な職業においてストライキが禁止される場合には、職業上の利益を防衛する基本的な手段をこのようにして奪われた労働者の利益を完全に保護するための適当な保障を確保することに本委員会の付している重要性に対し、注意を喚起した(参照、第六次報告七五項。第七三号事件[英国―英領ホンジュラス]第一七次報告をも見よ/原注)。事実、本委員会は、絶えず、この原則を、必要不可欠な職業又は産業一般のいずれを問わず、ストライキが禁止又は制限されるすべての場合に適用してきた(第一次報告……〔以下略〕/原注)。日本に関する第六〇号事件において、本委員会は、現在の事件において持ち出されているのと同一の、ストライキを禁止する法律の規定に関する申立を検討した。第六〇号事件において、本委員会は、……ストライキ権の否定に関する申立てはこれ以上審議する必要がないとの結論を下した。
しかし、この結論は、本委員会が、ストライキ権の否定に関係法律により、『労働者の利益を保護する若干の保障―それに見合うロック・アウト権の否定、合同調停手続きの設定、及び調停が失敗した場合に、かつ、その場合に限り、合同仲裁機構の構成の設定(参照、第一二次報告、四五~五五項/原注)』が付随していることを認めて初めて下したものであった。』
このように、ILO条約勧告適用専門家委員会との間では、ストライキの制限・禁止が許容される「公務員」の範囲についての見解、とりわけ教員がこれに含まれないとする理解は完全に一致しており、しかも、右制限・禁止はあくまでも適切、公平かつ迅速な調停・仲裁手続きの保障を条件として初めて容認されるという考え方の点でも何らの齟齬はない。
(5) 以上のとおり、国家公務員でも公権力の行使に当たらない者や、国の行政にたずさわらない地方公務員などは、ILO九八号条約六条にいう「公務員」には当たらないのである。したがって、同条を根拠として、ILO八七号条約が右のような公務員のストライキ禁止に関係のない条約と理解するのは、完全な誤解であり、そうでなければ意図的な曲解と言うべきである。
(三) 教員の地位について
本件上告人らのような公立学校に勤務する教職員の場合は、教職が不可欠業務に含まれるかという点とともに、「公権力の代行者としての資格で行為する公務員」に該当するかという両面から問題になりうるが、これについては、ILOはいずれも明確に否定している。
(1) まず、ストライキの制限・禁止が許容されうる「不可欠業務」の範囲について、結社の自由委員会が確立した原則は、ダイジェストの四〇〇項ないし四〇四項に明記されているとおり、「その中断が国民の全部または一部の生命、安全または健康をあやうくするような業務」に限定されており(四〇〇項)、一般的造船活動・航空機修理・運輸事業・銀行・農業活動・金属および石油工業・教育・食糧品の供給・配達などは、性質上不可欠業務には当たらないし(四〇二項)、造幣・政府印刷業務ならびに国営のアルコール・塩・タバコ専売も言葉の厳格な意味における真の不可欠業務ではないとされている(四〇三項)。
さらに、公立学校教職員については、それが不可欠業務にも公権力のために活動する公務員の定義にも含まれないことを確認しているところである(四〇四項)。
ことに、右四〇四項の見解は、わが国に関する一七九号事件の審査においても、政府が「地方公共団体が行わなければならない義務教育は、国の行政の一部であり、したがって日本における教員は第九八号条約第六条の意味における『国の行政に従事する公務員』である」との主張を踏まえたうえで明確に述べられているところである。
この点は、先に引用した条約勧告適用専門家委員会の一九八三年報告二一四項でも同様のことが確認されている。
(2) ところで、教員のストライキ権については、先に述べたILOユネスコの共同活動の結果に注目すべきである。
すなわち、ILOユネスコ勧告八四項は、
「勤務条件から生じた教員と使用者との間の紛争を処理するため、適切な合同機構が設けられるものとする。この目的のために設けられた手段及び手続きが尽くされた場合又は当事者間の交渉が決裂した場合には、教員団体は正当な利益を守るために通常他の団体に開かれているような他の手段をとる権利を有するものとする」
としているが、「通常他の団体に開かれているような他の手段をとる権利」とはストライキを意味しており、右勧告が教員のストライキ権を認めていることは明らかである。
この点については、右勧告の適用状況を点検するILOユネスコ合同専門家会議の中でも、次のように指摘されているところである。
[一九七〇(昭和四五)年報告]
「教員の給与と勤務条件は教員団体と使用者との交渉手続きを経て決定されるべきであるという、勧告のこの規定は、すべての教員を対象とするものであり、公務員としての地位を有する教員に対しても適用される。」
「『(勧告八四項にいう)他の手段をとる権利を有する』との規定では争議権が教員に認められるべきであることを想定しているのである。」(三三九項)
[一九七六(昭和五一)年報告]
「日教組は一九七三年の最高裁判決(四・二五判決。代理人注記)は不当であると主張している。……教育公務員のストライキの禁止は事実指摘された条項(ILOユネスコ勧告八四項。代理人注記)に反するものであるというのが委員会の見解である」(一三三項)「本勧告(ILO・ユネスコ勧告。代理人注記)の第八四項では、また『この目的のために設けられた手段及び手続きが尽くされた場合、または当事者間の交渉が決裂したときは、教員団体は、正当な利益を守るために、他の団体に通常開かれているような他の手段をとる権利を有するものとする』と規定している。当委員会は前回の報告で、教育団体が争議権を持つことをこの規定が想定しているものと考えると述べた。……本勧告の第八四項がすべての教員に対し、その法律上の地位に基づく区別無しに適用されるものであること、また、紛争解決手続きが進行中で当事者間の交渉が決裂に至らない間のストライキの制度は容認できるけれども、教員によるストライキの全面的禁止は、この規定に合わないことを、当委員会は指摘する。」(二一二項)
5 ストライキの制限・禁止の代償措置
(一) 代償措置に関するILOの原則
ILOは、不可欠業務又は公権力の代行者として行為する公務員について、ストライキの禁止・制限が許容される場合といえども、これに見合う代償措置が必要であることを繰り返し指摘するとともに、その要件を明らかにしてきた。ILOが示している代償措置の内容・要件はきわめて明確であり、かつ一貫している。
この点に関する結社の自由委員会や条約勧告適用専門家委員会の見解は多数にのぼっている。その詳細については第一審最終準備書面の一二七頁ないし一三〇頁で紹介したところである。本節では、とくに次の二点を指摘する。
すなわち、一九七三年の結社の自由委員会第一三九次報告(一二二項)で述べられている代償措置の要件は、次のとおりである。
「(ストライキ権の制限又は禁止は)適切、公平かつ迅速な調停及び仲裁の手続きを伴うべきであり、当事者は、その手続きのあらゆる段階に参画することができ、裁定は、あらゆる場合において両当事者を拘束するものであり、また完全かつ迅速に実施されるべきものである。」
このことは、ダイジェストの三九七項ないし三九九項でも確認されているところである。また、条約勧告適用専門家委員会は、一九八四年の報告(二二条報告)において、八七号条約に関する日本関係の部分で、次のように述べており、結社の自由委員会が確立した原則とまったく同一の立場に立っていることを明確にしている。
「ストライキが公務又は不可欠業務において禁止または制限されるならば、その業務上の利益を擁護する不可欠の手段の一つをこのように否認されている労働者に対して適切な保障が与えられなければならない。制限は、適切、公平かつ迅速な調停及び仲裁の手続によって代償されるべきであり。その手続きにおいては両当事者を拘束すべきである。このような裁定は、いったん下された時は、迅速かつ完全に実施されるべきである。」
(二) 代償措置の要件に関するILOの基準
以上によれば、代償措置の内容ないし要件についてILOが確立している基準は、次のとおりである。
<1> 公平な機関であること。
<2> 調停・仲裁手続きであること。
<3> 当事者の参加が保障されること。
<4> 裁定が両当事者を拘束し完全かつ迅速に実施されること。
以下、これらの要件について、若干敷衍して述べることとする。
(1) 公平な機関であること。
代償措置(機関)は公平なものであることを必要とする。それは、なによりも機関の人的構成が公平なものであり、当事者に信頼されうるものでなければならない。そのためには、最低限、機関の構成員の選任手続きにおいて、労働団体の発言権が確保されるべきである。このことに関しては、ドライヤー報告が、わが国の人事委員会制度の公平性を検討する中で、次のように指摘していることを想起すべきである。
「これらの委員会は、少数の例外を除き、それぞれ三名の委員より成っており、証拠からは、それらの委員会のために選ばれる委員が必要な公平性を有し、かつ、一般に公平性を有すると認められることを確保するための実質的な又は実際的な保障措置が設けられていないように思われるであろう。結社の自由委員会が指摘したとおり、これらの委員会が単に公平であるのみでなく、その公平性が一般の信頼を博するようなものであるべきことを規定し、かつ、労働者団体がその任命に若干の発言権を有すべきことを確保することに対し、考慮が払われるべきである。法律は、各委員会のすべての委員が地方公共団体の長により地方議会の同意を得て任命されることを規定しているが、この取決めは、結社の自由委員会の勧告に適合したものとして認めることはほとんど不可能である。本委員会は、これらの委員会の公平性を確保する問題を公務員制度審議会に付託することが望ましいであろうということを示唆する。」(二一五二項)
(2) 調停・仲裁手続きであること
ILOは代償措置の中身はあくまでも調停・仲裁手続でなければならないとしている。それは、争議権の制限・禁止に対する代償ということから必然的に導かれる論理的帰結である。
すなわち、ILOは、公務員を含めてすべての労働者の労働条件は、労働者及び労働組合の参加のもとに決められるべきであり、そのことによってはじめて労働者の利益が保障されるものという基本的な認識に立っている。そして、そのためには、第一義的には団体交渉制度を重視し、これを普及すべきものと考えられている。このことは、今日の国際的常識である。
公務関係についても同様の考え方が貫かれており、先に掲記した一五一号条約においてもそのことが明確にされている。同条約七条は「雇用条件の決定のための手続」として、雇用条件の交渉のための手続きないし雇用条件の決定への公務員(組合)の参加の手続を規定しているところである。
この点について、ILO公務合同委員会の一九七一年報告は、次のように述べている。
「公務員団体がその正当な利益を守るため他の労働者の団体に通常許されている他の手段を行使することを不必要にするように勤務条件から生ずる紛争を調整するあっせん、調停及び任意仲裁のような適当な合同機関を設けることの重要性を強調し……」
(3) 当事者の参加が保障されること。
代償措置であるためには、右の調停・仲裁手続のあらゆる段階に当事者が参加することが認められなければならない。この要件も、前述のような労働条件の決定には労働者ないし労働組合の参加が保障されなければならないという基本的原則から導かれる論理的帰結である。
(4) 裁定が両当事者を拘束し完全かつ迅速に実施されること。
調停・仲裁手続きの結果としての裁定は、両当事者を拘束するものであり、完全かつ迅速に実施しなければならない。
このことは、ストライキ権という基本的権利の禁止・制限の代償措置である以上、きわめて当然のことと言わなければならない。裁定が当事者に対して拘束力を持たず、完全かつ迅速に実施されないというのでは、代償措置たる意味はまったくない。
この点に関連して、ILOは、立法機関への予算の留保は裁定の実施を妨げるべき理由とはならないものとしている。結社の自由委員会は、第五六次報告において、公労法の仲裁裁定について、次のように述べている。
「大部分の裁定は、これまで完全に実施されてきたとの日本政府の言明に留意しつつも、これに関連して、立法機関への予算の留保は、強制仲裁機関の下した裁定の条項の順守を妨げるべき効果をもつべきではないという原則に日本政府の注意を喚起する。」
立法機関の予算上の留保に関しては、ダイジェストにおいても、次のように要約され、結社の自由委員会の確立した原則とされている。
「三九八 立法機関に対する予算権の留保は、強制仲裁委員会によって下された裁定の履行を妨げる効果をもってはならない。この原則からの逸脱は、ストライキが不可欠業務において禁止されるばあいに、調停手続きと、その裁定が両当事者を拘束する不偏の仲裁機構をともなっていなければならないという原則の適用効果をそこなう。」
このことは、条約勧告適用専門家委員会でも、一九八三年と八四年の日本に関する意見の中で次のように述べて、同一の見解に立っていることを示している。
「委員会は、立法機関に対する予算上の権限の留保は、仲裁機関が行った裁定の履行を阻害する効果を持つべきではないということを想起する。」
他方、立法機関の予算上の留保と仲裁裁定の履行の問題にかかわって、財政民主主義との関係が問題になるが、この点についても、結社の自由委員会第五四次報告は、公労委の仲裁裁定が公労法一六条によれば「国会の承認を受けるまでは、政府―使用者を事実上拘束しないようにみえる」(五八項)としつつも、続く五九項で次のように述べて、この問題を明確に整理している。
「事態そのものは珍しいことではない。公社又は国有産業庁が、当該事業に配分された資金またはそこに蓄積された資金では完全に賄いきれない裁定により拘束される、若干の国にあっては、追加金を入手する方法及び手段を案出するために議会に救援を求めなければならぬ。しかし、立法機関に留保された予算権が、かかる場合において、政府及び立法府が拘束力ある裁定の作成者として同意した強制仲裁機関の下した裁定の条項に干渉されるべきでないことは、かかる措置の必然の帰結である。」
すなわち、議会自身がその立法でストライキ禁止の代償として強制仲裁機関を設置した以上、その裁定の内容を受け入れるのは、自らかかる措置を設置したことの必然的帰結であるというのである。そして、国連総会が設置した苦情処理委員会の裁定は、総会自身がかかる機構を設置したことに伴う当然の債務であるとして、総会が予算審議・承認権を理由として自ら設置した機構の裁定の実施を拒否することは許されない旨の国際司法裁判所の見解を引用しつつ、
「かかる慣行(裁定の完全実施―代理人注記)から離脱することは、必要不可欠の役務に従事する労働者からストライキ権を奪う場合には、その裁定が『両当事者を拘束する』仲裁機関の設置という、補償措置をとるべきであるとの原則の効果的な適用を損ずるものである、と考える。」
と述べ、財政民主主義といえども代償措置としての仲裁裁定の完全実施という原則を否定する理由にはなりえないとしているのである。
ちなみに、五・四判決は財政民主主義を公務員の争議行為禁止のきわめて大きな根拠として位置づけているのであるが、右のような結社の自由委員会の見解に照らすと、財政民主主義をストライキ禁止の根拠としながら、右禁止の代償として自ら設置した人事院勧告の実施について再び財政民主主義を持ち出して予算上の留保を主張し、その完全実施をしないというのは、きわめて背信的なものとの評価を免れないことになるわけである。
三 国際人権規約などに見る国際的労働常識
右に詳述した公務員のストライキ権に関するILOの諸原則は、単にILO独自のものではなく、今日の国際的な常識となっている。このことを明らかにするため、国際人権規約とヨーロッパ社会憲章の二つの国際基準について触れることとする。
1 国際人権規約(A規約)
国際連合は、一九六六(昭和四一)年に世界人権宣言を条約化した国際人権規約を採択した。同規約は、「経済的、社会的、文化的権利に関する国際規約」(A規約)、「市民的、政治的権利に関する国際規約」(B規約)とB規約に関する「選択議定書」の三つの部分から成り立っている。このうち、A規約の八条一項d号では「同盟罷業する権利」を保障している。ただし、これについては「この権利は、各国の法律に従って行使されるものとする」とされている。この規定の趣旨は、同盟罷業をする権利、すなわちストライキ権については、行使についての制約・制限は可能であるが、ストライキを全面一律に禁止してしまうことは許されないというものである。これは、八条二項との対比からも明らかである。すなわち、同条項は「本条は、国の軍隊、警察または行政府の構成員による前記の権利の行使に対して、法律による制限を課することを妨げるものではない」としているのであって、国の軍隊・警察・行政府の構成員についてのみストライキ権の行使自体に対して、法律による制限を課することが可能とされている。したがって、これらの者についてストライキを禁止することが許されるとしても、それ以外のものについてストライキ権を全面一律に禁止することは許されないのである。
そうすると、これらの者の範囲、ことに「行政府の構成員」(members of the administration of the state)の意味が問題となるが、これは、先にILO九八号条約六条について述べたところと同様、公権力の代行者として行動する公務員を指し、下級の国家公務員や公共企業体職員及び地方公務員は除外され、これらの者のストライキ権を全面一律に禁止することは許されないと解されている。
わが国政府は、このストライキ権条項について留保宣言をしているが、このこと自体、右のような解釈に立脚していることを示している。
国際人権規約A規約を批准した国にイギリス、西ドイツ、フランス、イタリー、日本等の先進諸国が入っていることはもとよりとして、バルバドス、コスタリカ、ギニア、ケニア、ペルー等の開発途上国も数多く含まれており、当時の社会主義国や共産党政権下にあった旧ソ連東欧諸国も含まれ、一九九二年三月現在一〇七ケ国にのぼり、文字通りグローバルな人権条約の実質をそなえている。そして批准した国の大多数が、八条一項d号を含めて批准しており、同条項を留保したのは、日本とノルウェーの僅か二国だけである。日本が、公務員の労働基本権保障の面で、いかに立ちおくれており、孤立化しているかが、これによってきわめて鮮明なものとなっている。
2 ヨーロッパ社会憲章
一九六一(昭和三六)年、ECやOECDと並ぶ地域的国際組織であるヨーロッパ審議会は、ヨーロッパ社会憲章を採択した。この憲章では、次のとおり、基本的人権として団体交渉権及びストライキ権を明文で保障している(六条四項)。
「団体交渉権の効果的な行使を奨励する目的をもって、締結国は以下のことを約束する。
<1> 労働者と使用者の間の合同会議を促進すること。
<2> 必要があり、適切な場合には、労働協約という方法によって雇用条件等を規律する目的で、使用者団体と労働者団体との任意的な交渉機構を促進すること。
<3> 労働争議の解決のための調停および任意的仲裁のための適切な機構の設立と活用を促進すること。
そして、以下のことを承認する。
<4> 利益争議のばあいのストライキ権をふくむ労働者及び使用者の団体行動をする権利。ただし事前に締結された労働協約から生じることのある義務にしたがうことを条件とする。」
これに対する「制限」は、第三一条で次のように規定されている。
「この憲章の第一部で定められた権利と原則が実効的に実現されて、それらの権利と原則が第二部で定められるように実効的に行使されるばあい、第一部および第二部で特別に定められている制限または制約のほかには、法律によって定められたものであって、他人の権利と自由の保護のために、もしくは公共の利益、国の安全、公共の健康または道徳の保護のために、民主的社会において必要であるものをのぞいて、いかなる制限または制約をも課しえない。」
この点では重要なことは、労働者が公務員であることを理由とするストライキ権の否認は、三一条の制限の中に含まれないことである。それゆえに、この憲章の適用を監視する専門家委員会の報告書は、次のように、西ドイツにおける「官吏」のストライキ禁止が六条四項に適合しないことを繰り返し指摘している。
「検討の結果、第六条四項に定められているストライキ権を、すべての任官している官(ママ)官吏にたいし完全に否認することが、第三一条にてらして正当と考えられることは明白に不可能であることを示している。」
以上のように、いずれの国際基準も、ILOが確立している基準と基本的に同一の原則に立脚していることを示しており、わが国の公務員労働法制がこのような国際的基準とは明らかにかけ離れたものであるかが明らかである。
四、欧米諸国における公務員の労働基本権保障の実情
憲法二八条が保障する労働基本権は、近代先進諸国における労働運動の歴史が生み出した権利の到達点を示すものである。したがって、その解釈にあたっては、これら諸国の権利保障の実態が参照されなければならない。
そこで、以下においては、欧米諸国における公務員の労働基本権保障の内容と実態を概説することとする。それにより、明文上何らの留保もとどめることなく勤労者の労働基本権を保障しているわが国の憲法下で、勤労者である地方公務員の争議権を全面一律に奪うこと自体はもとより、その代償として設けられた現行人勧制度が、機関の構成の不公平さ、勧告作成過程における労働組合の参加手続の欠如、勧告の非拘束性等の点でいかに異常なものであるかということを浮き彫りにし、そのような法律・制度がわが憲法の解釈としても到底合憲性を認めることができないことを明らかにする。
1 公務員の争議権を容認している諸国
欧米諸国では、公務員に対しても、他の一般労働者と同様に争議権を容認している国が多数を占めている。イギリス・フランス・イタリア・スウェーデン・ノルウェー・カナダ等の諸国がそれである。
これらの国においても、一部の公務員、例えば警察・監獄職員・裁判官・航空管制官等について争議権が否定されている例もあるが(フランス、イギリス等)、それは公務員であるという理由からではなく、これらの職種が市民の生命財産に重大な危険をもたらすような公共的事業であるという観点に基づくものである。
2 公務員の争議権を制限・禁止している諸国における勤務条件決定手続等
ドイツ(旧西ドイツ)では「官吏」たる公務員について争議権が禁止されており、アメリカ合衆国では、州レベルでは公務員の争議権を制限するものと許容しているものがあり、連邦公務員については一般的に禁止されている。
しかしながら、これらの制限・禁止の範囲やその場合の勤務条件決定手続については、わが国とは大きく異なっている。以下にその概要を述べる。
(一) ドイツの状況
ボン基本法九条三項は労働者の団結権保障を明記しているが、わが国の憲法二八条とは異なり、争議権については明文の保障はない。
他方、ドイツの公務員は「官吏」「職員」「雇員」の三者に区分され、「官吏」たる公務員については、法律上、団交権・争議権が一般的に否定されている。しかしながら、右三者の構成割合を見ると、「職員」「雇員」の割合が圧倒的多数であり、これらの公務員については団交権・争議権の保障があるのであって、ドイツにおける公務員の争議権制限の実情は、すべての公務員の争議権を全面一律に否定するわが国とは相当に異なっている。
しかも、団交権・争議権を否定されている「官吏」については、その雇傭条件に関する立法への関与権が認められており、右立法にあたっては、「官吏」の組合が当局との間で、その起草・修正の段階で実質上団体交渉に近い協議を行っている。
右立法関与権の行使は、「上部団体」と政府との直接協議のほかに、連邦人事委員会(七名のうち三名は適当な組合の指名した公務員の中から選ばれる)の官吏立法改正に対する意見提出、第二院及び連邦議会に対する圧力工作等によって補充されている。ことに議会工作は、連邦議会の議員の過半数が労働組合の組合員であり、また議員の三分の一近くが現職あるいは元官吏であるため、きわめて効果的な働きをしていると言われている(恒藤・末川編『公共労働の研究』、近藤正三著『西ドイツにおける公共労働』〔日本労働法学会誌二七号〕、久保敬治著著(ママ)『西独公務員の労働基本権と労働組合』等参照)。
このように、団交権・争議権を否定されているドイツの「官吏」は、組合を通じて、自らの労働条件決定過程に主体的に参加し、かつその決定に重要な影響を及ぼすことが法律制度上も保障されているのである。
(二) アメリカ合衆国の状況
アメリカ合衆国連邦憲法においては、労働者の人権としての労働基本権保障は存在せず、その意味で、アメリカは労働基本権の保障の点で後進性を有しており、憲法二八条が団結権・団体行動権(団交権・争議権)をすべての勤労者に保障しているわが国と比較して、前提において大きな相違がある。また、連邦公務員と各州の公務員の間では、その適用法令が基本的に異なっている。アメリカの労働基本権保障の実情を見る場合は、このことを踏まえておかなければならない。
(1) まず、連邦公務員については、タフト・ハートレイ法によって争議権が明文で否認されており、団体交渉権の保障も認められていない。しかし、一九六二年のケネディ行政命令によって、使用者たる連邦政府との団体交渉が承認されるに至り、一九六九年のニクソン行政命令によってこれが拡大され、団体交渉の行き詰まりの際には連邦斡旋調停局や連邦公務員紛争委員会等の第三者機関の仲裁制度等が具備されるようになった。
給与決定手続きについては、一九七〇年連邦給与権衡法によって、公務員労働組合の大幅な協議権が認められるに至った。従来の連邦公務員給与については、労働省労働統計局が民間給与実態調査を行い、これに基づいて、「エイジェント」(連邦人事委員長を含む三名)が官民給与比較と大統領への勧告を行うこととされていたが、新制度では、「エイジェント」と大統領の中間に給与法の適用を受ける職員のうち相当数を代表する職員団体の代表五名からなる「連邦職員給与評議会」(ペイ・カウンシル)を設置している。その構成員は「エイジェント」の任命によることとされてはいるが、例えば一九七一年二月に初めて任命されたメンバーは、AFL・CIOから三名、無所属の「連邦職員全国連盟」と「国税職員全国連盟」から各一名であった。これは毎年更新されている。
給与評議会は、労働統計局による給与調査の調査対象の範囲、官民給与比較の方法及び官民給与の均衡のために必要な調整等について「エイジェント」に意見を提出する。「エイジェント」は給与評議会の意見を含めて、「連邦給与諮問委員会」及び大統領に報告する。
また、従来の給与改定手続きでは、議会が大統領の報告と勧告を受けてから公聴会を開き立法措置を待って実施されていたため、改定に時間を要し、予算上の制約から官民給与格差が埋められないという傾向もあった。これに対して、新制度では右のような給与評議会の意見提出・協議・諮問・勧告手続を経たものである限り、給与改定は大統領によって実施することができるものとされ、その迅速な実施が確保されることとなった。
(2) アメリカの州及び州以下の地方公務員は、タフト・ハートレイ法の適用対象から除外されているため、各州等はその公務員の労使関係について、連邦と州の憲法に抵触しない範囲で自由に規制できる。そのため、各州の公務員法制は、争議権の否定・容認、団体交渉権の否定・容認、緊急調停制度や仲裁制度の有無等々の点で多種多様のものが存在している。
しかしながら、一九六九年にはバーモント州で教員である公務員について、モンタナ州で看護婦である公務員について、翌一九七〇年にはバーモント州で市町村の公務員について、ハワイ州で公務員の種類の区別なく原則的に、ペンシルバニア州で州市町村の公務員について、アラスカ州で警察官等の一部の公務員を除いて原則的に、それぞれ公務員の争議権を承認する立法がなされた。その後、この傾向は強まってきており、オレゴン州・ミネソタ州・メリーランド州・ウィスコンシン州においても条件付きで州公務員の争議権が承認されるに至っている。
加えて、争議権を承認しない場合も、公務員の給与を含む労働条件決定過程における団体交渉を重視して、これを積極的に導入するとともに、団体交渉が行き詰まった場合の強制仲裁手続き等が整備されているというのが一般的傾向である。
(3) 一九六七年には、ニューヨーク州において、いわゆるテーラー報告に基づき、テーラー法(公務員等公正雇傭法)が制定され、同州の公務員について団体交渉権と協約締結権が承認され、団体交渉が行き詰まった場合の解決のために「公的雇傭関係委員会」が設置された。
テーラー報告は、ニューヨーク州において、一九六六年ころまで交通等の公務員のストライキが多発し、当時の公務員法(コンドン・ワドリン法)を改正する必要が生じたため、州知事から諮問を受けて提出されたものであり、公務員のストライキ禁止自体は当然の前提とされたのであるが、問題はこれをいかにして防止するかということが同報告に与えられた課題であった。そして、同報告は、ストライキの防止のためには労使間(公務員組合と州当局間)の団体交渉を促進することがきわめて重要であるという基本的観点に立脚しつつ、これによって解決に至らない問題については、労使の紛争解決手続を整理することに主眼がおかれたのである。
かくして、テーラー法は、団体交渉と労働協約締結権を保障し、不当労働行為の規定を設け、交渉行き詰まりの場合の前期公的雇傭関係委員会による調停・仲裁等の紛争解決手続を周到に整備したものである。また、同法ではストライキに対する制裁も賃金カットとチェック・オフの廃止のみとされている。同法制定後の運用においても、団体交渉や調停・仲裁の手続によって多くの紛争解決が図られてきた。
(4) 以上のように、アメリカにおいてストライキが禁止される場合にも、それに代えて強制拘束仲裁制度等が採用されていることが多いのは、何よりも、わが国の最高裁判決やこれに追随する下級審判決の態度とは異なり、アメリカでは、憲法上に明文の規定が存在しないにもかかわらず、団体交渉権が憲法上の基本的権利であることを認めようとする理論的機運が、判例理論も含めて高まりつつあることの反映にほかならない。さらには、ストライキを禁止することですべてが解決するものではないという現実を踏まえた一般的な認識に支えられたものである。
このことは、テーラー報告が次のように述べていることからも十分にうかがえるところである。
「われわれの目的が、単にストライキを違法視し、厳しい制裁を定めることにあるのではないことをここに強調しなければならない。われわれは、公務員とその団体が、ストライキに訴えることなく、その正当な目的を達成されうることを知るに至るものと確信したいのである。」
(5) わが国の最高裁判決、とりわけ五・四判決は、公務員の団体交渉権は財政民主主義原理と相容れないとして、その団交権や争議権は憲法二八条による労働基本権保障の枠外にあるかのような判示をしているが、憲法上労働基本権が明文をもって保障されていないアメリカ合衆国においても、ニューヨーク州のテーラー報告及びテーラー法を含めて、公務員に団体交渉権を付与したり、交渉行き詰まりの場合の強制拘束仲裁制度を設けることが立法府の固有の権限を侵し二律背反として成り立たない、とか、立法府の権限のみが優越するといった硬直した態度は決してとっていないのである。
この点に関して、菅野和夫教授は次のように述べている(『国家公務員の団体協約締結権否定の合憲性問題』久保敬治教授記念論文集・世界思想社刊一三五頁)。
「アメリカ合衆国の諸州におけるこれらの立法例は、議会制民主主義・財政民主主義の下でも公務員の団体交渉を相当程度まで制度化することは十分可能であることを示している。しかもわが国の憲法は、議会制民主主義および財政民主主義の原理をもつ一方で、前述のような本旨をもつと解される二八条という規定を有している。したがって、憲法は全体としては、公務委員について、議会制(財政)民主主義などの制約原理のもとでも可能な団体交渉を一定程度保障することを要請していると読むべきであろう。」
わが国の公務員の勤務条件決定に関する現行法制の憲法適合性を検討するに当たって、アメリカの法制度から汲み取るべき教訓は、まさにこのような見方にほかならない。
(三) (この項まとめ)
以上のとおり、欧米諸国では、公務員の争議権について、民間労働者との間に区別を設けずにこれを保障するというのが大勢である。また、これらの諸国でもいわゆる「重要業務」について、争議権を否定している例があるが、それは公務員であるということが本質的理由とされているのではなく、官民を問わない制約原理として考えられているのであって、わが国のように、公務員であるという一事をもって、その職種や地位を問わずに争議権を全面一律に禁止したうえ、協約締結権までも否定している国家はない。
さらに、一部高級公務員の争議権を否定するドイツ及び連邦や一部の州で公務員の争議権を否定しているアメリカ合衆国においては、これらの職員の労働条件決定について、労働組合の積極的参加やその意見が決定に反映されるための具体的手続き、さらには交渉が行き詰まった場合の調停・仲裁手続きが整備されており、その内容はまさしくILO結社の自由委員会や条約勧告適用専門家委員会が定立した前述の代償措置の諸要件に沿うものとなっているのである。
その意味で、公務員の争議権及びその制限・禁止に見合う代償措置の要件に関するILOの諸原則は、まさしく国際的な労働常識と言うべきものである。
五 ILOの諸原則などと憲法二八条の解釈
1 基本的視点と判例の態度
これまで述べてきたところから明らかなとおり、
<1> ストライキ権はすべての労働者にとって、その利益を擁護するための不可欠の手段であり、これを全面的に禁止することはILO八七条約の結社の自由の原則を侵すものであること。
<2> ストライキ権の制限・禁止が許容されうる労働者の範囲は、公権力の代行者として行動する一部の公務員や不可欠業務に限られるべきであって、教育公務員はこれらに該当しないこと。
<3> ストライキ権を制限・禁止する場合には、労使の両当事者がすべての段階に参加することができ、その裁定が両当事者を拘束するとともに、右裁定が完全かつ迅速に実施されるという要件を満たした適切、公平かつ迅速な調停・仲裁手続きが保障されなければならないこと。
というILO条約勧告適用専門家委員会や結社の自由委員会が定立した諸原則は、三〇年以上にわたって一貫した確固不動のものとなっている。しかも、右諸原則は、単にILOないし右委員会の独自の見解ではなく、他の国際条約や国際的機関の見解とも合致しているばかりか、欧米諸国の公務員法制においても基本的に承認されているところであって、国際的に普遍性をもった労働常識となっている。
しかも、それは、単に政策的・技術的な観点から生み出されものではなく、公務員等の公共部門を含めたすべての労働者の労働条件の決定については、労働者(労働組合)自身がその決定過程に参加して意見を述べ、その意見が十分に反映されるということが、労働者にとっての不可侵の基本的人権であるという今日の普遍的な人権思想に基づく必然的な帰結であるということである。
他方で、わが国の憲法二八条は、労働者の団結権・団体交渉権その他の団体行動権を基本的人権として明文をもって保障するという点で、右のような人権思想に立脚していることは明らかであり、その意味で世界的にも先進的な部類に属している。
そうであれば、憲法二八条の解釈・適用においても、叙上のような国際的な労働常識ないしは公共部門における労働基本権保障の基本的原則に立脚し、これに則って現行地公法の憲法適合性を検討すべきは当然のことと言わなければならない。それこそが「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」と宣明し、「日本国が締結した条約及び確立した国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」(九八条二項)と規定した日本国憲法の趣旨に沿う所以であると言うべきである。
ところが、従来の最高裁判例は「国際的視野」に立ちながら、ILOの先例性を失った見解や実証性をもたない理論に拠って国際的労働常識そのものからは目をそらし、また、これらに従う下級審判例の多くは、ILOなどにおいて確立された諸原則について、法源性がないとか、ILOとしての公式見解でないとか、理想論であってわが国の実情に合わないなどといった「弁解のための弁解」に類する理由を持ち出して、これを憲法二八条の解釈・適用に取り入れて真正面から検討することを極力回避してきた。
敗戦後の混乱期やその傷痕が残っていた時代であればともかく、わが国が欧米諸国を凌ぐ経済大国・世界の最先進国と自他ともに認めるに至った今日、もはやこのような態度を維持し続けることは許されない。
2 国際的最低労働基準としてのILO条約
(一) ILOの条約や勧告は、一五〇にのぼる加盟国の政府・労働者団体・使用者団体という三者代表によって構成される理事会や総会の中で、きわめて厳格な手続きと慎重な審議(例えば二重審議方式など)経て採択されるのであるから、そこに盛り込まれた基準は、先進国・発展途上国、工業国・農業国などの別を問わず、あらゆる国において守られるべき普遍的内容のものとならざるをえない。とりわけ、未だ全世界的に条約と強い形とするには機が熟していないと認められるときは、ゆるやかな勧告という形がとられるということに照らすと、少なくとも条約とした採択されたものの内容は、全世界の共通する最低限の労働基準という性格を有していると認められるのである。
このことは、ILO憲章自身が、
「一般に適用する条約または勧告を作成する場合には、総会は気候条件・産業組織の不完全な発達、または他の特殊な事情によって産業条件が実質的に異なる国について十分考慮を払い、かつこれらの国の事態に応ずるために必要と認める修正があるときは、その修正を示唆しなければならない」(一九条三項)
と述べていることからも明らかである。
(二) 総会においても、ILOが定立した基準が最低限の労働基準であることを確認している。
すなわち、一九六四年の「憲章問題に関する総会代表団」は、ILOの国際労働基準のガイドラインは「国際基準は明らかに実施不可能なものであってはならず、ほんのひと握りの国において達成されるようなものであってはならない」述べている。ことに、本件で問題となる結社の自由の原則に関して、一九六八年の第五二回総会で採択された「人権の分野において、特に結社の自由についてILOの執るべき措置に関する決議」は、八七号条約と九八号条約について「これらの両条約は、結社の自由に関する最低基準を定めたものである」ことを確認している。
(三) この点に関して、バルティコスは、ILO条約と勧告は、「異なる状況に一般的に適用しうるような世界的基準」であり、基準のレベルとしては「基準がその設定された水準によって大なり小なり限られた加盟国だけを対象とすることになってしまうことを避けなければならない。……したがって、多くの国にとり適当な基準を設けることが重要である」と指摘している(<証拠略>)。そして、このようにして定立されたILOの基準の最低基準性について、次のように述べている。
「批准した条約を実施する義務の解釈は、労働条件を向上することをめざすILOの基準が最低の基準であることを念頭においてなされなければならない。」「ILO条約が国内法に受容され、そしてそれがセルフ・エクゼキューティングである場合には、その基準と従来の国内法令との間に抵触が生じる可能性がある。……抵触した場合の妥当な一つの解釈の仕方は、ILO基準が最低基準を示すものと解することである。」(<証拠略>)
さらに、ILO条約の採択に際しては留保宣言を付することが許されないこととされているが、このこともまた、ILO条約の内容の最低基準性を示すものである。なぜなら、「ILO条約は世界中の労働者保護のための、最低基準を定めるものであって、宣言を発した特定の国に最低基準を下まわることをゆるすとすれば、ILOの基本的立場がそこなわれる」からである(中山和久著『ILO条約と日本』六頁)
3 監視機関の条約解釈における基本的態度
(一) 条約勧告適用専門家委員会や結社の自由委員会などの監視機関による条約の解釈もまた、ILOの定立した労働基準会が全世界的に普遍的なものであり、あくまでも最低の基準であるという基本原則に立脚して行われてきたものである。このことは、バルティコスが紹介しているとおり、条約勧告適用専門家委員会自身が一九七七年の報告において次のようにのべているところからも明らかである。
「委員会の役割は、当該国の経済、社会状況の如何にかかわらず、対象となる条約が要求しているものが実施されているか否かを認定することである。条約自体の中で明示的に許されている例外を除き、条約上の義務は全ての国に対して継続的で画一的でなくてはならない。この役割を果たす上で委員会は、条約に規定された基準にのみ準拠し、各々の国の相違を考慮にいれるのは、適用の方法についてだけである。これは、条約の基準は国際基準であって、その実施が如何にされているかを評価する場合は画一的になされなくてはならず、特定の社会経済体制によって導かれる理念に影響されてはならないからである。」(<証拠略>)
(二) この点に関して、「ILO各種委員会の見解は労働者の地位向上のため国際的視点から一つの理念形態を示すもの」とか「ILO諸機関の見解は、労働者の利益促進のため国際的立場からかなり理想的(努力目標的)なものを指向している部分も少なくない」などと述べて、条約勧告適用専門家委員会や結社の自由委員会が確立した諸原則は「理想論」であるとの理解に立つ下級審判決(東京高裁六〇・一一・二〇判決、判例時報一一七七号一五頁)もあるが、これはまったくの誤解ないしは曲解と言わなければならない。
条約勧告適用専門家委員会の委員は、国家や職業的利益を代表するものではなく、その個人的能力によって任命され、各加盟国がILO憲章や条約に基づいて負っている義務をどの程度遵守しているかを公平かつ客観的に判断することを任務としている。そして、同委員会では、書面上の証拠、すなわち政府報告、法律及び規則その他の適当な資料(例えば使用者又は労働者団体の意見書等)、ならびに委員会の質問に対する政府の回答に基づき、ILO条約の加盟国における実施上の問題点を討議し、委員全員一致の同意で結論を出して報告書を作成する。そして、この報告書は理事会に提出されるとともに、加盟国及び総会に送付され、総会では第三議題「条約及び勧告の適用に関する通知及び報告」の基本的資料とされているのである。
他方、結社の自由委員会は、理事会において、理事の中から政府・労働代表・使用者代表各三名計九名の正委員で構成され、ILO八七号条約と九八号条約に関する具体的な侵害申立事例に即して、当該事例が右条約に違反するものかどうか、違反があるとすれば、該当国の法制度などのいかなる点を是正すべきかということを検討し判断することを任務としている。そして、同委員会では、申立人と該当国政府から提出された書面による証拠などに基づいて問題点を討議し、全会一致の同意で結論を出して報告書を作成する。この報告書は理事会に提出されて確認を経たうえで関係国に送付することとなっている。
そして、右両委員会の審理・検討においては、あくまでもILOの条約などが最低の国際基準であるという基本的観点に立脚し、これらの基準を加盟各国が完全に実施していくためには、いかなる点をどのように是正すべきかということを指摘するという立場から具体的見解を示しているものである。
このような条約勧告適用専門家委員会及び結社の自由委員会の任務・構成及び審理手続きとその基本的観点などを見れば、その見解が、あくまでも最低基準としてのILO条約及びその解釈に照らし、それぞれの具体的事件や各国の状況について、結社の自由の侵害の有無とその克服の具体的な方策を指示したものであって、決して現実に実施不可能な理想論や努力目標を述べているものでないことは容易に理解できるところである。
(三) さらに、前掲・東京高裁判決は、右「ILO理想論」に続いて、「(ILO各種委員会の)提言は各国の政治的、秩序的、社会的(国民感情を含む。)側面に対する顧慮が薄いことは否めない」とか「それぞれの国情や現実性に応じた変容修正が必要と思われる」などと述べ、その例示として、「たとえば、調停、仲裁がわが国の非現業関係公務員制度に十分なじむのかどうか、その裁定に拘束力を認めることと議会制民主主義とをいかに調整するか等々」を挙げ、結局は「わが国の公共部門における労使関係には独自特異の面がある。したがって、このようなILOの諸見解をそのまま継受した解釈を試み、わが国の公務員に対するストライキ禁止法制を直ちに違憲とするのは決して論理的でもなく、また現実的でもないと考える」と判示している。
しかしながら、ILOが定立する労働基準は、その時代における加盟各国の経済的・財政的状況にも十分に考慮を払ったうえで、すべての加盟国が遵守すべき普遍的なものという基本的観点に立ったものである。このことは、フィラデルフィア宣言の本文第二項に述べられた「社会正義」の基本的意義とこれを構成するためのILOの責務についての五点にわたる確認にも明確に示されている。
現に、ILOにおける労働基準の策定にあたっては、世界中の加盟各国における法制度やその運用の実情、財政・経済状態等々にわたるきわめて綿密で膨大な量にのぼる調査検討の結果、関係機関に上程され、そこでの徹底的な討議を経たうえで、さらに三者構成の総会における二重審議方式という慎重な手続きを経ている。例えば、公務員問題についてのILOにおける検討が本格的に開始されて一五一号条約に結実するまでの間には、公務員専門家会議(一九六三年)・公務員合同委員会(一九七一年~一九八三年)・公務員専門総会(一九七五年)などといった会議が重ねられたが、そこでは、専門的スタッフによる加盟各国の公務員法制やその運用実態などについての徹底的な調査結果が上程されるとともに、公共部門のストライキ権に関しては、市場の抑制論・職務の公共性論・統治権論・議会制民主主義論ないしは財政民主主義論・忠誠義務論等々といった考えられるあらゆる論点が検討の対象とされて論議されているのである。
これは、条約勧告適用専門家委員会や結社の自由委員会などの監視機関における審議・検討の過程でも同様である。このことは、それぞれの委員会の報告書において、結論を導く前提として記載された事実認定ないし調査結果に関する記述、例えば条約勧告適用専門家委員会の一九八三年報告書やドライヤー報告の該当箇所を一読すれば明らかである。このように、ILOの基準は、監視機関の見解を含めて、加盟各国の実情や政府の見解などを明確に認識し、これを十分に考慮したうえでなお、現実的に実施可能な労働基準は何か、この基準に照らして各国の現状はどのように改められるべきかという観点から定立されたものであって、前掲・東京高裁が指摘する議会制民主主義と公務員の労働基本権の関係についてもILOにおいては検討され克服された問題なのである。その意味で、右東京高裁判決の指摘は、自らの認識不足を露呈する以外の何ものでもない。
「ILO基準は国民感情に沿わない」とか「わが国の公共部門における労使関係には独自特異の面がある」というに至っては、裁判所としての判断の体裁さえ失っている。
さらには、「調停・仲裁制度はわが国の非現業公務員制度になじむかどうか疑問である」との点については、一切の理由が示されておらず、単にわが国の現行法制においてかかる制度が欠けていることを指しているとしか考えられない。現に、公労法・地公労法においては、調停・仲裁制度が設けられ、その機能を果たしてきたことに照らすと、非現業公務員の場合は調停・仲裁制度ではなく、人勧制度でなければならないという理由は、法的にも実態的にもまったく考えられない。
結局のところ、前掲・東京高裁判決が挙げる諸点は、いずれも、ILOの諸原則をわが国憲法二八条の解釈基準として採用することが出来ないとする理由とは到底なしえないものである。
4 監視機構の役割とその見解の重要性
また、当事件第一審判決や盛岡地裁昭和五七・六・一一判決(判例時報一〇六号四二頁)などが言う「ILO条約についての有権的解釈は国際司法裁判所の任務であり、条約勧告適用専門家委員会や結社の自由委員会の見解には法源性がなく、右見解は政府に対し国内法制の整備を求めているにとどまる」との点が地公法の憲法解釈において右見解に示された諸原則を無視する理由とはなりえないことについては、既に原審昭和六三年二月二日付控訴人準備書面(七)で詳述したところであるので、本書では再説することを避ける。
六 むすび
以上詳述したとおり、ILO条約勧告適用専門家委員会や結社の自由委員会は、八七号条約(三条、一〇条)の解釈として、
<1> ストライキ権はすべての労働者にとって、その利益を擁護するための不可欠の手段であり、これを全面的に禁止することはILO八七号条約の結社の自由の原則を侵すものである。
<2> ストライキ権の制限・禁止が許容されうる労働者の範囲は、公権力の代行者として行動する一部の公務員や不可欠業務に限られるべきであって、教育公務員はこれらに該当しない。
<3> ストライキ権を制限・禁止する場合には、労使の両当事者がすべての段階に参加することができ、その裁定が両当事者を拘束するとともに、右裁定が完全かつ迅速に実施されるという要件を満たした適切、公平かつ迅速な調停・仲裁手続きが保障されなければならない。
との諸原則を確固たる基準として定立しており、これは、ILO自身はもとより、国際的に確立した最低労働基準と言うべきものである。
したがって、八七号条約を批准しているわが国の労働基本権保障のあり方は、条約遵守義務を定めた憲法九八条の要請から、右基準に則って解釈されなければならず、かかる国際的労働常識は、わが国憲法二八条の規範的意味内容を確定するうえで最大限に尊重されるべきである。これと異なる基準をもって憲法二八条の解釈をすべき合理的根拠はまったくない。
従って、すべての地方公務員に対してストライキを全面一律に禁止し、しかも右禁止に見合うべき適切・公平かつ迅速な調停・仲裁手続きを欠いている地公法三七条一項が、この点からしても憲法二八条に適合しない法律であることは疑う余地がない。
第三章 本件各懲戒処分が憲法二八条に違反しないとの判断の誤り
一 原判決の判断理由の要旨と問題点
1 原判決の判断理由の要旨
(一) 原判決はまず「争議権制約の代償措置は、争議行為を禁止されている公務員の利益を現実的に保障しようとする制度であって、公務員の争議行為の禁止が違憲とされない為の論理的前提となる」(以下「前提一」という)とし、最高裁五・二一判決に従い、「非現業地方公務員に対する現行の代償措置制度は、制度上労働基本権の制度に見合う代償措置としての一般的要件を満たしているものと認められ」る(以下「前提二」という)とする。そして、「右の代償措置は単に制度上一般要件を満たしているというだけではなく、現実にも労働基本権制約の代償措置として十全とは言えないまでも、少なくともそれ相応の機能を果たしていると言える事が必要である」(以下「前提三」という)とする。
(二) 右の論旨を前提としながら、原判決は前記五・二一判決における岸・天野両裁判官の追加補足意見に示された例示に従い、「代償措置が本来の機能を果たさず、実際上画餅に等しいと見られる事態を生じた場合には、公務員がこの制度の正常な運用を要求して相当と認められる範囲を逸脱しない手段態様で争議行為におよんだとしても、これを直ちに違法視し、これに対して地方法三七条一項を適用して不利益制裁を課することは、憲法二八条との関係で適用違憲の問題を生じることがありうる」とする。
(三) その上で、本件当時の人事院勧告制度の右運用状況につき、「実施時期の点において勧告どおりの完全実施が行われずに多少の遅れを見たものの、引上率の点では勧告どおりの実施が行われているのであって、必ずしも十全とはいえないまでも代償措置としてそれなりの機能は一応これを果たしているものということができる。加うるに代償措置の制度としては、右の人事院等の給与引上げの勧告制度のみでなく、そのほかにも地方公務員は前述のように地方法上身分、任免、服務その他の勤務条件についてその利益保障を享受しているのであって、この点も代償措置制度の一環をなすものであることを併せて考えると、現行の代償措置制度は本件各争議行為当時実際の運用上も相応の機能を果たしているもの」というのである。
2 原判決の問題点
(一) 原判決の判断は、右に見たとおり、本件代償措置をめぐる適用違憲の論旨として前提一、二、三を定立し、次に適用違憲となる場合の一般的基準を示し、本件の具体的適用判断を行っている。
まず、前提一、二、三について見るに、前提一を大前提とし、前提二において制度論としての基準を立て、前提三において機能論としての要件を論じている。しかし、第一に、その論旨の大前提となる前提一に照らして導いた前提二において、「労働基本権の制限に見合う代償措置としての一般的要件を満たしている」と述べるところの一般的要件の中身が何ら示されていない。前提一に述べるとおり、代償措置の存在が争議行為禁止を合憲とされる論理的前提という以上、その代償措置なるものの憲法適合基準が憲法に照らして明確にされなければならないことは当然の事柄であるにもかかわらず、単に一般的要件と述べるのみに止まっている。
第二に、やはり前提一を大前提とする以上、代償措置が憲法適合基準に合致した機能を果たすべきであることまた当然の事柄であるにもかかわらず、その機能は「十全と」言える必要はなく、「それ相応の機能を果たしてい」れば足りるとすることは明らかな矛盾である。
代償措置の存在が合憲とされる論理的前提である以上、代償措置が「相応の機能」ではなく、「本来の機能」を果たしていなければ合憲のための前提を欠くに至るのは至極当然の筈である。
右の如き論旨の矛盾は、結局のところ、前提二における「一般的要件」なる内容が憲法に適合しているか否かの検討を欠落させていることに起因している。
(二) 次に原判決は、適用違憲の一般的基準として岸・天野意見に従うかの判示をしているが、実は岸・天野意見の内容を誤解している。つまり、原判決が岸・天野意見であるかの如く示しているものは、単に適用違憲の一例として示したに過ぎない部分であって、岸・天野意見の眼目は「代償措置こそは、争議行為を禁止されている公務員の利益を国家的に保障しようとする現実的な制度であり、公務員の争議行為禁止が違憲とされないための強力な支柱なのであるから、それが十分にその保障機能を発揮しうるものでなければならず、また、そのような運用がはかられなければならない」との部分である。
原判決も、岸・天野意見を多数意見と異なる意見とは考えていないと思われるが、それは右眼目というべき部分であって、例示部分は、多数意見と矛盾するものでないとしてもあくまで例示に過ぎず、右の例示の場合に限って適用違憲となると述べているものではない。原判決は右の点について誤解がある。
(三) 右に述べたとおり、原判決は、最高裁多数意見、並びに岸・天野意見の本旨を誤解し、その誤解の上に具体的適用判断を行った結果誤った結論に至ったものであって、原判決には憲法二八条の解釈適用の誤りがある。
二 判例における代償措置論の位置づけと問題点
1 五・四判決における代償措置論
(一) 公務員等の争議禁止規定をめぐる最高裁の見解は、四・二五判決以降大きく転換された。しかしながら、右判例変更の前後を問わず、代償措置の存在が争議禁止規定の合憲性を判断するための重要な要件であることは変わりがない。むしろ判例変更の前後を対比すれば、四・二五判決以降は代償措置の存否こそが憲法適否判断の唯一の要件とも言うべき地位に押し上げられ、それだけ論点としての重要性が増したとさえ言い得るのである。すなわち、それ以前は代償措置の存否以前の、争議行為を制限し得る場合の条件にこそ重要性があったからである。
ところで、四・二五判決に続き、五・二一判決、五・四判決と相次いで出された判決が、いずれも公務員の争議禁止規定を全面的に合憲とする点では一致しているものの、その論理構成にはかなりの変化がある。そこで、まず今日の判例理論の到達点と言われる五・四判決につき、代償措置論がどのような位置づけで考えられているかの検討から見て行くこととする。
(二) 五・四判決多数意見の代償措置に関する判示は、次のような内容である。
「全農林事件判決は、非現業の国家公務員に関し、『公務員についても憲法によってその労働基本権が保障される以上この保障と国民全体の共同利益の擁護との間に均衡が保たれることを必要とすることは、憲法の趣意であると解されるのであるから、その労働基本権を制限するにあたっては、これに代わる相応の措置が講じられなければならない。』と判示している。右の判示が五現業及び三公社の職員に関しても妥当することは、いうまでもない。この点につき現行法制をみると、まず、これらの職員は、国家公務員又はそれに準ずる者として、法律によって、身分の保障を受け、その給与については、生計費並びに一般国家公務員及び民間事業の従事者の給与その他の条件を考慮して定めなければならないとされている。そして、特に公労法は、当局と職員との間の紛争につき、あっせん、調定及び仲裁を行うための公平な公共企業体等労働委員会を設け、その三五条本文において「委員会の裁定に対しては、当事者は、双方とも最終的決定としてこれに服従しなければならず、また、政府は、当該裁定が実施されるように、できる限り努力しなければならない。」と定め、さらに、同条但書は、同法一六条とあいまって、予算上又は資金上不可能な支出を内容とする裁定についてはその最終的な決定を国会に委ねるべきものとしているのである。これは、協約締結権を含む団体交渉権を付与しながら争議権を否定する場合の代償措置として、よく整備されたものということができ、右の職員生存権擁護のための配慮に欠けることがないものというべきである。」
すなわち、五・四判決は、労働基本権制限にあたっては、労働基本権保障の憲法の趣意から、労働基本権に代わる相応の措置が講じられなければならない、とする四・二五判決の判示をそのまま引用し、これと同一の立場に立つことを明らかにしている。その上で、公労法に定める労使間の紛争解決制度をもって「代償措置として、よく整備されたもの」と評価するのである。
2 憲法二八条解釈と代償措置との関係
(一) ところで、五・四判決は、公務員等にかかる憲法二八条の基本権保障の解釈について、四・二五判決と対比しても際立った特色を示している。すなわち、五・四判決は、「国家公務員の身分を有する五現業の職員も、自己の労務を提供することにより生活の資を得ている点においては、一般の勤労者と異なるところがないのであるから、共に憲法二八条にいう勤労者にあたるものと解される。しかしながら、ここで、全農林事件判決が、非現業の国家公務員につき、これを憲法二八条の勤労者にあたるとしつつも、その憲法上の地位の特殊性から労働基本権の保障が重大な制約を受けている旨を説示していることに、留意しなければならない。」として、つづけて四・二五判決の判示を引用した後、次のような要約を行っている。「非現業の国家公務員の場合、その勤務条件は、憲法上、国民全体の意思を代表する国会において、法律、予算の形で決定するべきものとされており、労使間の自由な団体交渉に基づく合意によって決定すべきものとはされていないので、私企業の労働者の場合のような、労使による勤務条件の共同決定を内容とする団体交渉権の保障はなく、右の共同決定のための団体交渉過程の一環として予定されている争議権もまた、憲法上当然に保障されているものとはいえないのである」。右の解釈の特徴は、香城判事の判例解説(法曹時報三二巻六号)によれば、公務員等の争議行為禁止が憲法二八条に違反しないと解する法原理上の根拠として「当該勤労者に関し、憲法二八条の争議権保障の法原理と矛盾対立する憲法上の法原理が同条の外に存在し、後の法原理の方が優越するため、争議権の保障が及んでいない」とする見解をあげ、この法原理は、特定勤労者に対する争議行為禁止の可否を決定するものではなく、争議権保障の有無を決定するものであるとし(同一一〇頁以下)、五・四判定が、右の法原理を基本とする全く新しい合憲判断のアプローチを採用したと評している(同一二頁)。そして更に、右判旨の結論を導く解釈手法につき、「公務員等に対し右のような団体交渉権が憲法上保障されているか否かの問題は、勤労者に対して右の団体交渉権を保障する旨の憲法二八条の法原理と、憲法上の基本的な構成原理である議会制民主主義とのいずれに憲法上の優位性が認められるかという法原理間の序列確定の問題」であって、「本判決は後者に優位性を認めた」ものと説明している(同一二四頁)。
(二) 五・四判決の前記憲法二八条解釈に対する批判はここでは繰り返さないが、その判示は、文言上から見る限り、香城判事の右解説の如く考える他はないと思われる。そうであるとすれば、右のような憲法二八条解釈のもとでは、先の代償措置論は如何なる位置づけとなるのであろうか。この点についても香城判事の解説によれば、次のような説明がなされている。
「本判決は、公務員等に対しては憲法二八条の争議権の保障がないと解している。したがって、ここにいう代償措置は、本来保障されている争議権を奪った代償としての措置ではなく、憲法二八条に内在する生存権擁護の理念から要請される特別の措置であるとみなければならない。その点で、東京中郵事件判決で説かれた代償措置が争議権を奪ったことに見合う措置を意味していたのとは、異なっている。」(同解説一三七頁)。
五・四判決の基本権理解を前提とするならば、代償措置論は右のような位置づけを与えられる他はないであろう。つまり、憲法二八条のもとで、本来保障されていない権利であれば、同条から代償措置の必要性を導き出すことは不可能だからである。
しかしながら、代償措置に対する理解として、その立法の沿革に照らしても、これ迄の政府・人事院の理解に照らしても、右のような解釈は余りにも実体を無視した独自の解釈である。わが国の国会審議で示されて来た政府・人事院の見解は、いずれも、人勧制度等につき団交権、争議権剥奪の代償措置であることを一貫して承認しているのである。
そればかりでなく、代償措置論を右のように位置づけることは、五・四判決自身の、先に引用した代償措置の必要性を論じた判旨とも矛盾する。つまり、五・四判決自ら、代償措置論としては、「公務員についても憲法によってその労働基本権が保障される以上、この保障と国民全体の共同利益の擁護との間に均衡が保たれることを必要とすることは憲法の趣意である」と述べている。
右の判示は先の基本権解釈と結びつけるならば、どのように理解すればよいのであろうか。香城判事のいうところの「憲法二八条に内在する生存権擁護の理念から要請される特別の措置」という説明で矛盾なく説明し得るとは到底思われないのである。右の解説は、ただ、五・四判決の基本権理解を前提とする限り、代償措置が求められる根拠は右のように説明するほかないという論理的辻褄合わせでしかないであろう。論理の一貫性のみを追求するのであれば、憲法二八条は、公務員等の団交権、争議権をもともと保障してないのであるから、それを保障しないからと言って、特段の代償を設ける必要は何ら存しない、と言えば最も明快である。しかし、さすがに右のように言うことは、労働基本権の制約と代償措置をめぐる今日の国際的、国内的常識から是認され得ないことは明らかである。
(三) 五・四判決並びにその形成に大きく寄与した香城理論(前記判例解説に引用された同氏の多数の論稿―それらは、同氏が法務省検事として公企労センター(公企体当局の理論研究センター)の委嘱により行ってきたアメリカ法判例研究の成果によるところが大きい)は、争議権の全面一律禁止法制を明快に合憲とする論理として、財政民主主義を最大唯一ともいうべき論拠とする論理を援用したのであるが、この論理は形式論としては成り立ち得ても、今日の労使問題を解決するには余りにも実情に沿わないことが、多くの学者から指摘されている。この形式論理と実態との矛盾が、まさに代償措置論において象徴的に露呈したというべきである。そして、この矛盾の解消は、代償措置論に無理な位置づけを与える方法によってではなく、その基本権理解を改める解釈によって為されるべきなのである。仮にそうでないとしても、争議権制限には憲法上の要請として「それに見合う代償措置が講じられなければならない」との法理を厳格に貫徹すべきである。
3 判例における代償措置の範囲と問題点
(一) 判例が代償措置論を展開するあたり、現行法制度の中でなにをもって代償措置と捉えているのか、その範囲について検討する。
まず、四・二五判決についてこの点を見ると
「わが法制上の公務員の勤務関係における具体的措置が果たして憲法の要請に添うものかどうかについて検討を加えてみるに、その争議行為等が、勤労者をも含めた国民全体の共同利益の保障という見地から制約を受ける公務員に対しても、その生存権保障の趣旨から、法は、これらの制約に見合う代償措置として、身分、任免、服務、給与その他に関する勤務条件についての周到詳密な規定を設け、さらに中央人事行政機関として準司法機関的性格をもつ人事院を設けている。ことに公務員は、法律によって定められる給与準則に基づいて給与を受け、その給与準則には俸給表のほか法定の事項が規定される等、いわゆる法定された勤務条件を享有しているのであって、人事院は、公務員の給与、勤務時間その他の勤務条件について、いわゆる情勢適応の原則により、国会および内閣に対し勧告または報告を義務づけられている。そして、公務員たる職員は、個別的にまたは職員団体を通じて俸給、給料その他の勤務条件に関し、人事院に対しいわゆる行政措置要求をし、あるいはまた、もし不利益な処分を受けたときは、人事院に対し審査請求をする途も開かれているのである。このように、公務員は、労働基本権に対する制限の代償として、制度上整備された生存権擁護のための関連措置による保障を受けているのである。……以上に説明したとおり、公務員の従事する職務には公共性がある一方、法律によりその主要な勤務条件が定められ、身分が保障されているほか、適切な代償措置が講じられている」と述べている。
右の判旨によれば、前段と後段とでは、「代償措置」として捉える諸制度の範囲に齟齬があるように思われる。つまり、前段では、「法は、これらの制約に見合う代償として、身分、任免、服務、給与その他に関する勤務条件についての周到詳密な規定を設け、さらに中央人事行政機関として準司法機関的性格をもつ人事院を設けている。ことに公務員は……」となっており、右の判示からは、公務員の勤務条件にかかわる現行の諸制度の殆んどがあたかも代償措置を構成しているかの如く読みとれる。しかし、後段の判示においては、「法律によりその重要な勤務条件が定められ、身分が保障されているほか、適切な代償措置が講じられている」とされ、勤務条件の法定および身分保障は代償措置とは別個のものとする判示になっている。
五・二一判決もほぼ同様の判示であるが、国公法、地公法で労働基本権が制約された立法経過に照らしても、そもそも勤務条件の法定あるいは身分保障といった事柄が労働基本権制約の代償措置である筈はない。
(二) 右の点を更に詳述すれば、人事院勧告の制度を除く法制はもともと国家公務員の争議権剥奪の代償措置として設けられたものではない。
それらは、昭和二三年の改正前の国公法にも存在していたものである。周知のように、国公法の右改正前は国家公務員の争議行為全面禁止規定が存在しなかった。右諸法制はその改正前の国公法にも存在していたのであるから、これらは、国家公務員の争議行為全面禁止ないし、それに伴う代償制度とは直接には関係のないものといわなければならない。他方、昭和二三年の改正で大きく変わったのは―すなわち争議行為禁止規定の創設といわば対をなして登場してきたのは、人事院制度であり、その勧告制度であった。
いま同年の国公法改正の重要な点をみてみると、まず一条の「この法律は、国家公務員たる職員について適用すべき各般の根本基準」の次に「(職員の福祉及び利益を保護するための適切な措置を含む。)」というカッコ書が挿入されている。
次に、同二八条(情勢適応の原則)の「この法律に基づいて定められる給与、勤務時間その他勤務条件に関する基礎事項は、国会により社会一般の情勢に適応するように、随時これを変更することができる。」の後に、「その変更に関しては、人事院においてこれを勧告することを怠ってはならない。」という規定が加えられた。さらに新たに同条二項が設けられ、「人事院は、毎年、少くとも一回、俸給表が適当であるかどうかについて国会及び内閣に同時に報告しなければならない。給与を決定する諸条件の変化により、俸給表に定める給与を百分の五以上増減する必要が生じたと認められるときは、人事院は、その報告にあわせて、国会及び内閣に適当な勧告をしなければならない。」という規定が新設された。
このほか人事院が創設されたことに伴い、人事院の組織、権限に関する規定が設けられたことは、周知の如くである。
佐藤功・鶴海良一郎「公務員法」(二九頁)は、さきに紹介した同法一条カッコ書について、次のように解説している。
「この括弧を附された挿入句は、昭和二三年の改正の際に、衆議院による修正として加えられた。その修正の趣旨は、このときの改正により、職員の団結権・団体交渉権・争議権が大幅に制限・禁止され、また政治活動も同様に制限され、その結果、この法律が、職員に対する取締法的な色彩を濃くし、また特にその給与問題など経済要求に付いての発言権が制限されることとなったために、職員の福祉及び利益の保護の面についても決して軽んずるものではなく、人事院がその保護の任にあたるものであることを明記するにあった。したがって、ここにいう『適切な措置』というのは、直接には第二八条による人事院の給与勧告の制度を指すものとされる。」
原判決は、「地公法上身分、任免、服務その他の勤務条件についてその利益保障を享受しているのであって、この点も代償措置制度の一環をなすものである。」というのであるが、改正前後の国公法、地公法の関連規定の対比をみれば明らかなように、分限・懲戒・身分保証ないし任免については、改正前においてもきわめて「周到詳密な規定」が設けられており、しかも改正の前後を通じてこれらの規定の内容は、基本的には変化がない。
また、服務についても改正前において「周到詳密な規定」がなされており、且つ、改正の前後で異なるのは、国公法について見れば改正後職員団体に関する規定が設けられたこと(改正後の九八条二項ないし四項)、争議行為禁止規定が設けられたこと(同条五項、六項)、政治的行為の制限について人事院規則に大幅な制限が委ねられていることの諸点であって、これを除けば改正の前後において大きな変化はない。
さらに給与に関する規定は、改正の前後を通じて、国公法において人事委員会が人事院に、また、給与準則の立案等の提出先が内閣総理大臣から国会及び内閣にかわったという点は別として、基本的には変化がない。「給与準則に定むべき事項」についても、基本的には変化がない。
また、行政措置要求、審査請求についても、人事委員会が人事院にかわった点を別として、改正の前後において変化はない。
さらに給与以外の勤務条件については、情勢適応の原則(同法二八条)や人事委員会規則ないし人事院規則でこれを定めうる旨の規定(同法一〇六条)が存するのみで、もともと「周到詳密な規定」や法定の勤務条件の享受とみられるものは存在しない。
こうしてみると、さきに述べたように人事院を創設したこと及びその勧告制度を設けたことを別とすれば、法定の勤務条件、ないし行政措置要求、審査請求に関する規定は、昭和二三年の法改正の前後を通じて基本的な変化はなく、したがってこれらの点は、争議行為禁止ないしその代償措置とはかかわりのないものであることが明らかなのである。
以上のような立法経緯からみれば、国公法、地公法が争議権剥奪の代償措置として予定しているのは、人事院、人事委員会の勧告制度であり、且つそれのみであることが明らかである。
(三) さきの諸法制が争議権剥奪の代償とは関係のないものであることは、これらの点を内容的に検討してみても明らかである。まず「服務」について利益保証を享受していることが、どうして争議権剥奪の代償としての意味をもちうるのか。理解に苦しむところである。そもそも「服務」ということで、どのような規定を想定しているのかも定かではない。もしそれが国公法第三章第七節(同法九六条ないし一〇六条)、地公法第三章第六節(第三〇条ないし第三八条)の「服務」を指す趣旨だとすると、そのなかには争議行為禁止、守秘義務、職務専念義務、政治的行為の制限等が含まれているのであり、これらの規定が争議権剥奪の代償とはおよそ無縁なものであることは、議論の余地があるまい。
次に、「身分、任免」という点は、主として身分保障(同法第三章第六節、とくに同法七五条)を指していると思われるが、身分保障は、現行公務員法制がスポイルズシステムを排し、メリットシステムを採用したことに因るものであって、公務員の政治的任免を排除することによって、公務の安定的、継続的遂行を確保する趣旨のものにほかならない。したがってそれは、公務員の争議権剥奪やその代償措置とは何ら関係のないものである。そのことは、前述のように、身分保障規定が争議行為禁止規定をもたない昭和二三年の改正前の国公法にすでに存していたことからみても明白である。また身分保障は、分限・懲戒というごく限られた事項に関するものにすぎす、給与、勤務時間その他の本来の、あるいは主要な勤務条件は、その埓外におかれている。さらに民間労働者の場合にも、労働協約や就業規則によって懲戒事由や解雇事由が明示的に限定されているのが一般であるから、これをもって争議権を剥奪された公務員に特有な保障ということはできない。他方、分限処分の事由のなかには、「官制若しくは定員の改廃又は予算の減少により廃職又は過員を生じた場合(同法七八条四号)という事由が設けられているのであり、公務員もまた行政上(民間労働者の場合でいえば経営上)、予算上の都合でその職を奪われる危険性にさらされているのであって、この点は経営上の都合により人員整理の危険にさらされている民間労働者とかわるところはなく、公務員の身分は、民間労働者以上に特段に安固ものではないのである。
(四) 次に原判決が援用する五・二一判定についてみると、同判決も「地公法上、地方公務員もまた国家公務員の場合とほぼ同様な勤務条件に関する利益を保障する定めがされている(殊に給与については、地公法二四条ないし二六条など)」、「人事院制度に対応するものとして、これと類似の性格をもち、かつ、これと同様の、又はこれに近い職務権限を有する人事委員会又は公平委員会の制度(同法七条ないし一二条)が設けられている」点をあげている。また右の人事委員会等の職務権限としては、同法二六条、四七条、五〇条があげられている。
しかし、たしかにたとえば同法二四条から二六条にかけて、給与についての定めが設けられてはいるが、そのなかで地方公務員の給与水準を適正なものとし、その利益を保障する上で実室(ママ)的にも重要な規定は、同法二四条三項の「職員の給与は、生計費並びに国及び他の地方公共団体の職員並びに民間事業の従業者の給与その他の事情を考慮して定められなければならない。」との規定であろう。ここでも国家公務員の給与と同様に、地方公務員の給与は生計費をみたすものであり、また民間賃金と格差のないものであることが要請されているが、しかし地公法がこのように定めたからといって、そのことだけから地方公務員の給与が現実にそのような適切なものとなるわけではない。地方公務員の給与は、右の規定をふまえながら地方議会の条例によって定められるのであるから、議会が右の規定の要請にかなう給与を決定するためには、生計費や民間賃金の動向などについては議会も必ずしも通暁しているわけではなく、議会といえども、決して万能ではないのであるから、国家公務員の場合と同様に、専門的な機関の科学的な調査判断を必要不可欠なものとしている。そしてまさに、この要請に応えて設けられたのが、同法二六条の人事委員会の給与勧告制度にほかならない。そうだとすると、地公法の場合にも、国公法の場合と同様に、争議権剥奪の代償措置たる意味をもちうるのは、人事委員会の給与勧告制度であり、またこれのみであるということになる。
公平委員会については、このような給与勧告の権限さえ与えられていないのであるから、公平委員会はこの点で代償措置として重要な不備・欠陥をかかえているものというべきである。この点は五・二一判決も意識しており、現に「もっとも、詳細に両者(人事院と人事委員会・公平委員会を指す。代理人註)を比較検討すると、人事委員会又は公平委員会、特に後者は、その構成及び職務権限上、公務員の勤務条件に関する利益の保護のための機構として、必ずしも常に人事院の場合ほど効果的な機能を実際に発揮しうると認められるかどうかにつき問題がないではないけれども」と判示している。それにもかかわらず同判決が公平委員会まで含めて代償措置性を肯定したのは、あまりにも容易な態度だといわねばならない。なお同判決は、前記の判示に続いて「なお中立的立場から公務員の勤務条件に関する利益を保障するための機構としての基本的構造をもち、かつ必要な職務権限を与えられている(同法二六条、四七条、五〇条)点においては……」と判示しているのであるが、右の部分は公平委員会をも含めて論じているのであり、したがってそこで同法二六条を引用するのは、明らかな誤りである。
(五) 右に述べた批判は、当然のことながら多数の論者から指摘され、五・四判決に至ってこの批判は受け容れられたと思われる表現となっていることに留意すべきである。すなわち、五・四判決は、「この点につき現行法制をみると、まず、これらの職員は、国家公務員又はこれに準ずるものとして、法律によって、身分の保障を受け、その給与については、生計費並びに一般国家公務員及び民間事業の従事者の給与その他の条件を考慮して定めなければならない、とされている。そして、特に公労法は、当局と職員との間の紛争につき、あっせん、調停及び仲裁を行うための公平な公共企業体等労働委員会を設け、その三五条本文において、『委員会の裁定に対しては、当事者は、双方とも最終的決定としてこれに服従しなければならない。』と定め、さらに、同条但書は、同法一六条とあいまって、予算上又は資金上不可能な支出を内容とする裁定についてはその最終的な決定を国会に委ねるべきものとしているのである。これは、協約締結権を含む団体交渉権を付与しながら争議権を否定する場合の代償措置として、よく整備されたものということができ」と判示しており、代償措置として検討されているのは、公労法に定める紛争解決制度についてである。つまり、ILOの見解を引き合いに出す迄もなく、今日迄の代償措置論が問題としているのは、公労委、人事院、人事委員会制度等のいわゆる第三者機関といわれるものの存否・内容である。このことは、四・二五判決以降の各判決の、補足意見および反対意見を見れば一層明白である。
原判決は、代償措置とされるべき制度の内容を誤っている。
4 判例の基準とする「一般的要件」の問題点
(一) 四・二五判決以降五・四判決に至る迄の、先に引用した代償措置論の判示は、「労働基本権を制限するにあたっては、これに代わる相応の措置が講じられなければならず」、しかもそれは、「その保障と国民全体の共同利益の擁護との間に均衡が保たれることを必要とする」との憲法上の要請であるとするのであるから、現実に争議禁止等に伴ってとられている措置が憲法に適合するか否かの検討は、避けてとおることができない筈である。この点につき、最高裁はいかなる審査基準で憲法適否を考えているのかを検討する。
(二) まず四・二五判決についてみれば、現行法制をもって「適切な代償措置が講じられている」と結論するのみで、何らの基準も示していない。基本権制約の憲法適否を判断するにあたり、その審査基準が示されないとすれば、憲法判断として到底説得力を持たないことは言うまでもない。その後の五・二一判決は、地公法上の人事委員会、公平委員会制度について論じたなかで、「人事委員会又は公平委員会、特に後者は、……必ずしも常に人事院の場合ほど効果的な機能を実際に発揮しうるものと認められるかどうかにつき問題がないではないけれど、なお中立的な第三者的立場から公務員の勤務条件に関する利益を保障するための機構としての基本構造をもち、かつ、必要な職務権限を与えられている(同法二六条、四七条、五〇条)点においては、人事院制度と本質的に異なるところはなく、その点について、制度上、地方公務員の労働基本権の制限に見合う代償措置としての一般的要件を満たしている」と判示した。右の判旨によれば、憲法適合基準として、「労働基本権制限に見合う代償措置としての一般的要件」なる表現が登場し、右要件として、「中立的な第三者的立場から公務員の勤務条件に関する利益を保障するための機構としての基本的構造をもち、かつ、必要な職務権限を与えられている」ことを要するとされたのである。しかし、右にいうところが一応「一般的基準」と言い得るとして、問題は、何をもって「中立的な第三者的立場」といい、あるいは「必要な職務権限」とするかである。
又、五・四判決の判示においても、やはり基準の定立がなく、公労委を中心とした紛争解決制度をもって、「代償措置として、よく整備されたものということができ」と結論づけるに止まり、何故「代償措置として、よく整備されたもの」といえるかの説明がない。
(三) 右の点につき、香城判事は、やはり前記解説の中で、代償措置は「あくまでも生存権擁護の理念に基づくものであるから、憲法上要請されるその内容は、右の理念が充たされているか否かを基準としてこれを考究しなければならず、したがってまた、それは、必ずしも固定的なものではないと考えるべきであろう。」(前掲一三七頁)と述べ、あたかも基準の定立が不必要若しくは不可能であるかの説明を行っている。しかし、右のような代償措置の捉え方は、そもそもその前提に誤りがあり、それは五・四判決の判旨にも反するものであることは既に述べたとおりである。仮に代償措置が、右の香城判事の説く如き内容でしかないとすれば、労働基本権の代償という性格は論ずる余地がなく、むしろ生活保護法をもって足りることにさえなってしまうであろう。
又、五・四判決の高辻補足意見は、右香城判事とは異なり、代償措置をもって、公務員に対する労働基本権の保障と、公務員の勤務条件決定方式における憲法上の特殊性との調和を保持するためのものであるとの認識を示しながら、「その具体的内容は、憲法が一義的に確定しているわけではない。」として国会の立法裁量に委ねてしまうのである。
(四) しかしながら、確かに代償措置の具体的内容につき、憲法が一義的に確定しているわけではなく、従って国会の裁量の余地が全くないというものでないことはそのとおりであるとしても、少なくとも、その措置が労働基本権の保障と国民全体の共同利益の擁護との間の均衡保持という憲法上の要請に基づくものである以上、あげて立法裁量の問題というべきものではなく、憲法上要請される最低限の条件は定立されるべき事柄の筈である。現に代償措置論の発展をもたらしたILOにおいては、代償措置が具備すべき要件が具体的に確定されているのである。ILOが定立した代償措置としての基準を直ちにわが国憲法解釈の基準に導入することが出来ないとすれば、そのことの根拠とわが国憲法解釈としての要件の定立が求められなければならない。一連の最高裁判決の中でそれは何ら示されておらず、原判決もまた同様である。
原判決は、この点の吟味を欠落させたことによって、代償措置の機能面からする適用違憲の判断を誤らせたのである。五・二一判決は、代償措置の機能が争点となった事案でなく、まさにそれが争点である本件において、最高裁として右「一般的要件」の内容を明確にすることを求める次第である。
三 適用違憲の基準の定立
1 人勧制度等の「本来の機能」
(一) 代償措置(人事院勧告・人事委員会勧告制度)が機能しない場合には違憲状態を生じ、代償措置の機能発揮を求めてなされるストライキに対し、地公法三七条一項等を適用して懲戒処分を課することは適用違憲となる、とすることについては今日異論があるまい。問題は、どのような場合に代償措置が機能を発揮していないとみるか、すなわちどのような場合に適用違憲を生ずるのかの点にある。結論から述べれば、人事院が勧告制度本来の機能を発揮して勧告を行い、かつ、人事院から勧告を受けた政府、国会等が、人事院勧告等の完全実施のために、「誠実に法律上および事実上可能なかぎりのことをつくした」と認められないときは、適用違憲を生ずるといわなければならない。
(二) そこでまず検討しなければならないのは、人事院勧告制度を設けた国公法の法意であり、そこで予定されている制度「本来の機能」は何かである。すなわち人事院勧告制度は、国会が公務員の給与を「社会一般の情勢に適応するように」(国公法二八条一項。情勢適応の原則)決定することができるようにするため、すなわち公務員に民間労働者と同等な賃金(民間準拠の原則)を決定することができるようにするため、独立した専門機関である人事院の給与勧告制度を設けた(国公法六四条二項、二八条二項)というものであって、人事院勧告が政府及び国会によって完全実施され、公務員が現実に民間並の賃金を民間の賃上げの時期と同じ時期に受け取ることができるようになって、初めてこの制度は代償として機能することになる。人事院が、いかに勧告を行っても、人事院勧告が実施されなければ、それは代償機能を発揮したことにならない。すなわち、人事院勧告が完全実施され、公務員が民間並みの給与を受け取ることができるようになること、そのことによって初めて、公務員の争議行為等禁止の合理性が肯定し得るのであって、これが代償措置としての人事院勧告制度の「本来の機能」なのである。
(三) ILO結社の自由委員会二二二次報告も、人事院勧告制度の「代償的要素の妥当性は、人事院によって勧告された賃金引き上げの完全かつ迅速な実施にかかっており、これは、日本の最高裁判所自身によって承認された原則である。」と述べている。人事委員会勧告制度についても、全く同様のことがいえる。(地公法一四条、二四条三項、二六条)。
岸・天野追加補足意見は、「もっとも」として、代償措置の機能が十分に発揮されるか否かは、「その運用に関与するすべての当事者の真摯な努力にかかっているのであるから、当局側が誠実に法律上および事実上可能なかぎりのことをつくしたと認められるときは、要求されたところのものをそのままうけ容れなかったとしても、この制度が本来の機能をはたしていないと速断すべきでないことはいうまでもない。」と述べている。つまり、岸・天野追(ママ)補足意見は、人事院勧告の完全実施のために、「当局側が誠実に法律上および事実上可能なかぎりのことをつくしたと認められる」か否かを、適用違憲の判断基準としているということができる。
(四) 人事院勧告制度をめぐる憲法解釈として四・二五判決多数意見に対する政府の理解も、後に述べるように、人事院勧告を完全実施するために、関係当局は最大限の努力をつくすべきであるとするものであって、右岸・天野意見と実質的には同趣旨のものである。この点、四・二五判決の多数意見自体は、明示的には明らかにしていないが、それが「公務員についても憲法によってその労働基本権が保障される以上、憲法の趣旨であると解されるのであるから、その労働基本権を制限するにあたっては、これに代わる相応の措置が講じられなければならない。」と判示し、判例時報の解説(六九九号二三頁)でも指摘されているように、「代償措置を極めて重要な支柱としているのである」。岸・天野追加補足意見の「この代償措置こそは……公務員の争議行為の禁止が違憲とされないための強力な支柱なのである」という見解は、多数意見と同一の見解であるということができる。したがって岸・天野追加補足意見が述べていることについて、「多数意見においてとくに言及されていないが、その立場からは当然の理論的帰結である」としているのは、決して多数意見の誤読ではなく、きわめて正鵠を射た見解なのである。
(五) 下級審の判例においても、右と同趣旨の見解が示されている。
昭和六〇年一一月二〇日の東京高裁判決(判例時報一一七七号)は、次のように判示している。
「すなわち、上述のように、人事院勧告は憲法二八条に基づく争議権を奪うことに見合う代償措置なのであって、これを誠実に実施しないことは違憲状態を招きかねないものであるから、憲法九九条により憲法尊重擁護義務を負う国会及び政府としてはこれを十分尊重し真摯に実施することに努めなければならないものである。このことに縷言の要はあるまい。とはいえ、現実には遺憾なことながら、人事院勧告が完全には実施されず、軽視または無視されて代償措置制度が本来の機能を果たさずその実効性を失うような事態の生ずることも想定されないではない。そこでもし、かりに勧告をそのまま実施しないことが、国会および政府側において真に誠実に法律上及び事実上可能な限りこのことを尽くしたうえのことでやむを得ないと認められる場合は別として、右のような事態に立ち至ったときには、国家公務員としては、この制度の正常な運用を要求して相当と認められる範囲を逸脱しない手段態様で争議行為に出ることは、例外的に、憲法上許容されるものと解すべきであろう(最高裁四・二五判決の岸・天野裁判官追加補足意見、同五・二一判決の団藤裁判官補足意見参照)。このように解してはじめて人事院勧告を根幹とする現行代償措置制度は憲法上の制度としてその位置を全うし得るものと思われるからである。地方公務員の場合についても同断である。したがって、当裁判所は、公務員の争議禁止をきびしく求める以上は、代償措置の履行もきびしく要請されるものと考え、右のような例外をも是認しつつ、地方公務員に関する上掲代償措置の各制度の合憲性を肯定するものなのである。」
また、昭和六三年五月一〇日の東京高裁判決(判例時報一二七八号)は、次のように判示している。
「なお、右の代償措置は、地方法三七条一項が憲法二八条に違反しないことを支えている重要な制度であるから、運用に当たって当局が誠実厳格な努力をせず、その制度が本来の機能を果たさない事態に立ち至った場合には、一種の違憲状態を生じ、地方公務員がその正常な運用を求めて、争議行為に出ることが許容される場合もあり得ると考えられる。」昭和六〇年一二月二六日の福岡地裁判決(判例タイムズ五八八号)も、その控訴審判決である平成三年一二月二六日の福岡高裁判決も、適用違憲の判断基準としては、四・二五判決の岸・天野追加補足意見ないし五・二一判決の岸、天野、団藤裁判官の補足意見を採用しているが、それは最高裁多数意見の論理的帰結であるからである。
2 本件各闘争までの人勧制度の運用状況
(一) 人勧制度が発足後一〇年以上にわたり、制度本来の在り方とかけ離れた運用が行われた理由は、決して当時の政府の言う国の財政事情に起因するものではなかった。それは、この間、政府が数次にわたり国会に提出した国家公務員法改正案に示された政府の人事院改組の意図に明確に示されている。まず、昭和二七年五月に国会に提出されて改正案によると、人事院を、国家人事委員会に、人事院規則を人事委員会規則にそれぞれ改め、しかも、人事委員会とは、内閣の所轄のもとに置かれた現行の人事院と異なり、内閣総理大臣の所轄とされ、人事委員会規則は内閣総理大臣の承認を要するとするものであった。右改正の意図が、現行国公法上の人事院の独立的地位、権限を排除することにあったことは明らかである。右の昭和二七年法案が不成立に終わった後も、政府は同二九年法案、同三一年法案と同趣旨の改正案を国会に提出し、政府の人事院改組の企図は執ように続けられた(鵜飼信成「公務員法」(新版)有斐閣法律学全集三四頁以下)。
右の政府の国公法改正意図に示されているところが、その間の人事院勧告に対する政府の対応と一致しているのであって、財政上の理由から勧告が実施出来ないということではない。すなわち、人勧制度、ひいては人事院制度そのものの改廃意図に沿って人勧制度の運用を行ってきたのである。
(二) 政府によって人勧制度が無視され、更には人事院そのものがその権能を発揮しない状態が続いていた間、公務員組合は、当然のことながらこれを傍観していたわけではない。公務員組合は、政府に対し勧告の実施を求め、人事院に対しては官民格差の是正のための勧告を出すよう要求して様々な運動を続けて来た。しかし、集会・デモ・座り込みといった様々な陳情行動を繰り返すのみでは、一向に政府、人事院の態度を改めさせるには至らなかった。こうした公務員の不満の積み重ねは、昭和三五年に至り公務員共闘の結成をもたらした。公務員共闘とは、それまでばらばらの組織で陳情行動を続けていた国公、地公組合が、統一して結成した賃金共闘組織であった。この、公務員組合による公務員共闘の結成は、公務員と同様、公労法における仲裁裁定を無視され続けてきた公共企業体等労働組合協議会(以下「公労協」という)の運動に学んだものであった(槙(ママ)枝元文証言)。
公労協は、公務員共闘に先駆けて昭和二八年に結成され、昭和二九年以降仲裁裁定の完全実施を求める闘争を毎年続け、昭和三一年公労法三五条の改正を実現し、ついに翌昭和三二年三月六日、仲裁裁定を完全実施するとの確約を政府から獲得していた(<証拠略>)。
(三) 公務員共闘の結成は、直ちに政府の対応の変化をもたらし、政府は、公務員共闘の結成に対応する形で昭和三五年給与担当大臣を設置し、同年四月給与担当大臣は公務員共闘の賃金引上の交渉に応じた。こうした政府の対応の変化に呼応するように、同年八月八日、人事院は七年振りの給与改定勧告を行い、しかも改定実施時期を五月一日と明記するに至った(槙枝元文証言)。更に、この年から人事院の民間給与調査時期を三月から四月に変更し、その年の春闘相場を人勧に反映させる措置がとられた。わが国の民間賃金は、春闘を通じて四月に改訂されることから、三月時点の調査によっては前年の民間賃金をもとにした勧告にしかならず、民間相場が人勧に反映されたとしても、公務員の給与改定は民間より一年遅れることとなるからであった。
(四) こうした政府の対応は、公務員組合運動なしには人勧制度は機能しないものであるとの認識を公務員にもたらし、昭和三五年以降、人事院は勧告制度の機能をまがりなりにも発揮することとなったが、政府は、勧告に明記された実施時期を守らず、一〇月実施を行った。一〇月実施とは、実施を半年遅らせることであるから、年間給与についていえば勧告を半額に値切ることであった。公務員共闘は、勧告の実施時期を含めた完全実施を求めて毎年陳情行動を続けたが、政府の態度を変えることはできなかった。こうした公務員共闘の要求を背景に、昭和三九年人事院は、内閣と国会に対する報告で、実施時期につき民間並みの改善が行われていない事実を指摘し、人事院総裁自ら完全実施を要望する談話を発表した(<証拠略>)。この年ようやく政府は、実施時期を一ケ月繰り上げ九月一日実施とした。この年の給与法の成立に際しては、衆議院内閣委員会において、完全実施の予算措置を講ずべきとする附帯決議が採択された(<証拠略>)。
(五) 昭和三五年以降、勧告に明記された実施時期を政府が遵守しないことについて、国会においても勧告制度のありかたとの関連でさまざまな論議が行われ、その中で、本件とも関連して重要な内容を含む政府答弁がなされている。すなわち、昭和三六年一〇月一九日および同年同月二四日各衆議院内閣委員会において、給与改定の源資があるとしても、現下の経済情勢と照らし合わせて勧告を完全実施をしない、あるいは、財源の問題でこの問題(勧告実施問題)を取り扱うという慣例を開くと、翌年の勧告を実施せざるをえないという結果となるとの答弁である(<証拠略>)。更に、翌昭和三七年一〇月一〇日の衆議院内閣委員会では、人事院勧告の実施は地方公務員の人事委員会勧告実施をも含めて考慮すべきであるから、国家公務員の給与改定財源があることをもって直ちに人事院勧告を完全実施することは出来ない、との政府答弁もおこなわれている(<証拠略>)。これらの政府答弁は、財源不足が人勧を完全実施しないことの理由ではないことを明確にした。そのことは、昭和三四年以前、財源がないことを理由に勧告を完全実施できないとしていたことが、実は人勧制度空洞化の単なる口実であったことを政府自ら裏付けたものである。
(六) 当時から公務員組合は、勧告内容そのものに対しても組合の要求を反映したものとなっていないと批判し、人事院に対する要請行動を続けていた。従って、勧告が完全に実施されさえすればよいとするものではなかった。にもかかわらず、その勧告すら守られないという事態が数年にわたり続く間に、昭和三九年公労協は、ストライキを背景とした政府との交渉により、仲裁裁定を民間賃金に準拠させるとの確約を得た(<証拠略>)。公労協における仲裁裁定の完全実施がすでに昭和三二年に確保され、更に昭和三九年に至り、仲裁裁定の内容においても民間準拠を確立したことは、公務員に不公平感を増大させ、人勧完全実施の実現にはストライキによる闘争を行なう他ないとの認識をもたらした(槙枝元文証言)。
(七) 公務員共闘は、昭和四〇年一〇月、人事院勧告をうけた政府の給与改定閣議決定期に向けて、初めてストライキを構えて交渉を展開した。公務員共闘は、以後、毎年秋の閣議決定期にむけてストライキ闘争を実施し、その交渉を通じて、政府も昭和四一年以降、一年毎に実施時期を一ケ月ずつ繰り上げていった(槙枝元文証言)。こうした公務員組合のストライキ闘争は、ドライヤー報告に示された人勧制度の代償措置としての機能の指摘に裏付けられ、政府の人勧完全実施を批判する世論と、更には、昭和四一年一〇月二六日全逓中郵事件最高裁判決に支えられたものであった。
(八) 昭和四〇年一二月二四日、衆議院内閣委員会において「公務員の給与について政府は、人事院勧告制度の趣旨に鑑み、今後これを完全実施し得るような予算措置を講じることに最善を尽くすべきである」との付帯決議が為され、以後昭和四四年に至る迄衆参両院の内閣委員会あるいは予算委員会において繰り返し同旨の決議がされてきた(<証拠略>)。にもかかわらず、政府は国会の決議を四年にわたり無視したのである。
(九) 人事院総裁は、政府が人勧を完全実施しないことに関連して、昭和四二年一二月一五日の衆議院内閣委員会において、年度当初の予算に、予想される賃金の上昇分を計上すべきことを指摘した(<証拠略>)。政府が人事院勧告に基づき給与改定を実施する立場にある以上、そのための予測される財源を当初予算に計上しておくべきことは当然の責務の筈である。公務員共闘もこうした要求を政府に続け、政府もようやく昭和四五年度予算で五パーセントの給与改善費を計上した(<証拠略>)。
本件各闘争を経て、昭和四五年政府は、前年の官房長官談話で示された確約に従い、人勧完全実施に踏み切り、制度発足初年度以来、二二年を経てようやく人勧は完全実施されるに至った。人事院勧告制度発足二年目以降約一〇年の間、政府は人勧制度そのものを否定する態度に終始し、その後公務員共闘の結成以後更に一一年を経て、公務員組合の大きな犠牲のもとに漸く勧告の完全実施が実現されたのである。
3 人事院勧告完全実施確約の意義
(一) 昭和四五年七月九日衆議院内閣委員会において、政府(山中総理府総務長官)は次のように答弁している。「可能性があります災害あるいは米の予想以上の減反、こういうものがありましょうとも、この約束は昨年すでになされた政府の公的な姿勢でございます。これは公務員に対してなした政府の約束というばかりじゃなくて、公務員というものが国民に対して奉仕する姿勢からいえば、その待遇というものは国民に向かって政府が約束したものと受け取られて当然だと思うのです。したがって私たちは、この約束を守るためには、財源上の問題はいろいろ大蔵省としては心配の種がありますし、閣議これは無視してはおりませんが、今回の人事院の給与勧告については、完全にこれを実施するということについて、まずそのことの実行を先にやる。足らないのは、公務員給与の財源が足らないのではなくて、それを完全に実施したことによって足らないものを、場合によっては補正その他の手段もありましょうし、考えていく……」(<証拠略>)。
また、同年一二月三日の衆議院本会議において、佐藤内閣総理大臣は、「人事院勧告はこれを尊重するというのが、公務員法の趣旨から申しましても当然のことであり、今回、ようやくにして実現した完全実施のたてまえを、今後とも実施してまいりたい。」と、政府の勧告制度に対する態度を明らかにした(証拠略)。従来からも一貫して政府は人事院勧告を尊重すると述べて来たが、右総理大臣答弁で明らかにされたことは、勧告の尊重とは勧告の完全実施ということであって、従来の単なる尊重とは全く異なる内容である。
更に、山中総務長官は、同年同月九日の衆議院内閣委員会において、「私たちは、今年の人事院給与に関する勧告については、完全実施することを国民に対しても、国会に対してもお約束をいたしたつもりでおりますから、これは今後のルールが確立したとお考えいただいていいと思います。したがって、人事院給与の勧告の前提が何月からということの基本的な線が変わりましょうとも、また内容においていろいろ手直しがされましょうとも、これは完全実施をしていく、財政事情その他によって今後特殊な措置はとらないというルールを、私たちは国民の前に明らかにしたものと考えております。」と政府見解を説明して、人勧制度の運用のあり方を明らかにした(<証拠略>)。
(二) 右の政府答弁は、その内容から明らかなように、単年度の人勧完全実施を確約したというものではなく、財政事情その他にかかわりなく人事院勧告を完全実施することをルールとして確立したというのである。このことのもつ意味は極めて重要である。
旧公企体等労働関係法は、昭和三一年五月改正で、同法三五条に、政府の仲裁裁定実施努力を義務づける規定を設けた。右法改正は、公労協の仲裁裁定完全実施闘争の成果としてもたらされ、右改正の翌年、公労協は政府から完全実施の確約を得た。右の公労法改正の趣旨をふまえて、昭和四二年、人事院総裁は国会において、人勧が政府によって守られないことに対し、国公法においても、右公労法と同様、勧告の政府に対する尊重義務を明記すべことを要望した(<証拠略>)。
政府が国会において、財政事情その他によって今後特殊な措置をとることなく、人事院勧告を完全実施するとのルールを国民及び国会に対し約束したと明言したことは、国公法の条文上の改正に代えて、国公法の解釈として、政府の勧告実施努力義務を明確にしたことを意味しており、旧公労法の前記改正と対応するものであった。しかも、こうした仲裁裁定、人勧の完全実施ルールの確立は、いずれも本件各闘争を含む公企体、公務員各組合の運動によって漸くもたらされたのである。つまり、そうした運動なくしては、いずれの制度も代償措置として機能することはなかったのである。
(三) 昭和四五年以降、政府は人勧を完全実施するところとなり、政府自らをして慣熟した慣行と言わしめて来た。人勧制度が、公務員組合の労働基本権の代償であり、右制度を通じて労働基本権を制約された公務員の賃金を民間賃金に準拠させることを本旨とすることからすれば、人勧完全実施は単に慣行というべきものではなく、制度自体が本来予定しているものである。そのように運用されてはじめて代償措置たり得るのである。人事院勧告は民間賃金の実態に基づいて行われるのであるから、行われた勧告が政府の財政事情によって自由に裁量し得るとすれば、民間賃金準拠による代償としての合理性が失われることは言うまでもない。公務員給与の財源の中心を為すところの税収は、民間の景気動向と連動するものであるから、民間の賃金引上げ幅に準じて公務員給与の改善を行うことは、財源の面からも何ら困難を伴うものではないのである。
4 政府の人事院勧告尊重義務
(一) 政府が国会において、人勧完全実施を確約して以降九年間にわたり人事院勧告は完全に実施されて来た。ところで昭和五四年以降、政府は再び人事院勧告の完全実施を怠るに至った。そこで再び国会では、人勧制度のあり方、および人勧制度にかかわる最高裁判例の解釈をめぐって更に論議が行われ、昭和五六年一〇月一五日の参議院内閣委員会において、角田礼次郎法制局長官は、人事院勧告を勧告どおり実施しなかった場合の憲法との関連の質問に対し、政府委員として次のような答弁を行っている。「その点について最高裁の多数意見は直接に言及していないと思います。したがって、推論を加えるほかないのでありますけれども、多数意見に属する七裁判官が、少数意見の五裁判官の論難に対して答えているところに、『代償措置の制度さえ設けておけばその争議行為を禁止しても憲法に違反するものではないとの安易な見解にたっているものであるかのごとく誤解し、多数意見を論難している。』と、こう述べておりますから、言いかえれば、そういうふうな考え方は持っていないということだろうと思います。したがって、制度さえ設けておいて、そしてそれは完全に実際の場合にはすべて無視するというようなことであっては、最高裁の多数決意見はそれはいけないんだと、こういうことは言っていると思います。」
「最高裁の判決の考え方によるというのが行政府としての政府の基本的な態度であるべきだと思います。そういう意味で、それでは最高裁の判決はどういうふうに読むべきか、理解すべきかということを申し上げているわけでございますから、いわば私の意見は、最高裁の判決を私なりに読んだその見解を申し上げているというふうに御理解願いたいと思います。」
「そこで、いまの御質問でございますが、繰り返すようでございますが、その点については先ほども申し上げましたように、制度さえ設けておいて後は知らぬ存ぜぬということであっては、少なくとも最高裁は、それは憲法上の問題が生ずるであろうということは、これは言っているわけでございます。」
「私どもは判決理由全体いろいろ総合勘案して先ほど申し上げたようなことを申し上げているわけでございますけれども、しかし、何度も同じ事を申し上げますが、代償措置が設けてありさえすればいいというのではなくて、やはり、それが機能を発揮しなきゃならない、実効性を持ち得るように少なくとも当局は最大限の努力をしなければならないんだということは最高裁判決の趣旨とするところであろう」。(添付資料一<略>)
つまり、最高裁判例の解釈としての右政府見解によれば、政府は国公法上、そして憲法上、人事院勧告に対し最大限の実施努力義務を負っているとされているのである。
(二) ところが、政府は、この年の給与改定に関し、「(1)俸給表等は、人事院勧告どおり昭和五六年四月一日(調整手当については、昭和五七年四月一日)から改正を行うが、指定職及び本省課長等の職員については、昭和五七年四月一日から改定を行う。(2)期末、勤勉手当は、昭和五五年度の俸給等を基準に算定した額に凍結する。」との閣議決定を行った。
右諸手当の凍結措置は、五・二三%アップの勧告に対し、実に三分の一カットに相当するものであった。
しかしながら鈴木首相は、右の閣議決定にあたり昭和五六年一一月二六日の衆議院行財政改革特別委員会において、「毎年毎年ことしのような異例の措置が繰り返されるようであれば、これはまさに人事院制度の根幹に触れるような結果に相なると思います。政府といたしましては、ことしは御承知のような非常に財政非常の事態でございますので異例の措置をとって(ママ)わけでございますが、今後は人事院制度の持つ権威なりあるいはその勧告の重みというものを十分心得まして、誠意をもってこれに取り組んでまいる所存でございます。」と言明した(添付資料二<略>)。
(三) 翌昭和五七年は人事院勧告は全くの不実施とされるに至り、その後の国会でも人勧制度に対する論議が続けられた。その中で、昭和五八年八月一八日の衆議院内閣委員会において後藤田官房長官は、この問題の法律論にもふれて次のように答弁している。「最大限の努力というのは口だけではもちろんだめなんでして、具体的に政府としてはどのような努力をしたのか、その努力をしたにもかかわらずなおかつ抑制せざるを得ないということであるならば法律上の問題は起きない、私はさように考えております。……人事院の勧告があった場合に、おっしゃるように政府が全く恣意的に人事院の勧告に左右せられないで一方的に処置をする、その結果本来の人事院の機能がなくなるということであるならばこれは許されないと私は思います。しかしそこはやはり政府が広い国政全般の立場から合理的と思われる範囲内で一定の結論を出すということは別段法律上違法にはならぬ。……それじゃ限界はどうなのだ、こういう御質問のようでございますが、これは国会で最終判断を願うことになりますが、その国会の御判断といえども、これは最終は司法の判断になってくると思います(添付資料三<略>)。
先に見たとおり、政府は人勧制度発足二年目の昭和二五年以来昭和四四年まで、二〇年間にわたって勧告に従って来なかった。昭和四五年に至り、初めて、人勧制度尊重とは人勧を完全実施することであると国会で言明するに至り、以後九年間はそのことを守って来た。それは、公企体における仲裁裁定完全実施との対比においても当然の措置であった。そして、昭和五四年から六〇年まで七年にわたり、再び政府は勧告に従わなかったのである。この間人勧を受けた閣議決定では、人勧を完全実施していた間も通じて、すべて「人勧制度の尊重」と「財政状況のひっ迫」ということを述べている。つまり、人勧を完全実施するか否かは、「財政事情のひっ迫」という事態に左右されるのではなく、政府の人勧制度の尊重の仕方如何にかかっているのである。国会答弁にも示されているとおり、人勧を尊重することが政府の義務であることは政府自ら認めるところである。そうとすれば、政府の人勧実施努力義務違反の限界が明らかにされなければ、結局のところ、人勧制度とは政府がその扱いを恣意的に判断し得る制度と言うことになるのである。先に述べた如く、内閣官房長官自ら、その限界は司法の判断によると国会で答弁しているのである。
四 原判決の判断の誤り
1 本件各闘争の意義
(一) 本件各闘争のうち、昭和四三年一〇月八日、同四四年七月一〇日、同年一一月一三日の各ストライキは、本件各処分にみられるように大量過酷な懲戒処分という多大な犠牲をはらいながらも、人事院勧告の実施時期を一歩一歩前進させ、昭和四五年の完全実施を実現する上で大きな役割りを果たした。人事院勧告が完全に実施されず、その代償機能が不全に陥っているという実情のなかで、公務員組合の行った人勧完全実施を求める運動が、人勧完全実施を実現させ、代償措置の機能を回復させるという役割を果たしたのである。前述の岸・天野追加補足意見等の適用違憲の法理を承認した各意見は、このような昭和四〇年代前半の社会的経験への認識がその基礎になったとみてよいのであろう。すなわち、代償措置が法制上一応整備されていても、実際にはそれが機能しない場合があるのであり、このため公務員組合の側に代償機能の回復をはかるための争議行為の必要を生ずること、そして実際に組合側の争議行為が代償機能を回復させるという効果を発揮するものであることへの認識が、四・二五判決多数意見、ひいては岸・天野追加補足意見等を生み出したとみられるのである。
日教祖(ママ)・都教祖(ママ)の七四春闘事件に関する昭和五六年三月一四日の東京地裁判決(判例時報九六七号)も、次のように判示している。
「本来はそのような性質(完全実施し、公務員の労働基本権の制約に対する穴うめを図らなければならない義務に近い負担を負っているということ……代理人注)をもった勧告であるにも拘らず、これが法制上拘束力をもたされていないということのために、実施時期を遅延させられるという不利益を蒙ってきた公務員労働者が、集団的に労働基本権を行使して完全実施を求める行動に出て、その過程において、労働者側に犠牲を生じながら年ごとに実施時期遅延の解消をはかるという体験を重ねてきたことが認められ、そうした実践経験を通して、法制上争議行為禁止の代償措置とされているものが、現実にはこのような代償しかもたらさない法的措置であるのならば、労働基本権の制限に見合う十分な代償措置と考えるわけにゆかないと感じるようになるのはあながち非難できないところと考えられる。法が、労働基本権の制限を止むを得ないこととして、これに変わる代償措置として人事院制度、人事委員会制度等を設けたのは、その勧告が最大限誠実に履行されて真に代償措置となりうる実質を備えるべきこと、すなわち、その完全な実施が、労働者側においてあらたな犠牲を伴う要求行動をかまえなくとも、当然のこととして円滑に履行される状態が期待できることを原則的に前提としているからと考えねばならないであろう。ところが現実にはそうでなく、争議行為を構えなければ実施時期がくり上がらず、構えればくり上がるというような、右の制度本来の趣旨にそぐわない政治上の運用がはかられてきたという面がなくはないように見えるのである。そして、かりにそのような運用が固定化するにおいては、公務員がその是正を求めてする争議行為は、まさに憲法上は二八条の労働基本権の行使とみられ、そのことだけを理由として不利益な処分をうける根拠は存しないと考えられるべきところなのである。」
人事院勧告制度等をして憲法の要請に沿う代償措置であると評価し、その制度の存在をもって争議行為禁止の合憲性を肯定する以上、右の判示はあまりにも当然の内容である。
(二) 本件のうち、昭和四六年五月二〇日、同年七月一五日の各闘争は、昭和四五年において人事院勧告の完全実施が実現した後のものである。確かに昭和四五年に人事院勧告の完全実施は実現した。しかし、勧告における実施時期は従来どおり五月一日とされたままであった。人事院勧告制度が、公務員給与につき、民間賃金との格差是正を行って代償機能を果たすためには、給与引上げの実施時期が五月一日とされるのは不合理である。すなわち、人事院の民間賃金実態調査が毎年四月現在の賃金水準を対象として行われ、これに基づき官民格差を算出している以上、四月一日実施とされるのが当然の理論的帰結である。人事院が昭和三五年以来勧告に明記していた実施時期は一貫して五月一日であったが、なにゆえに五月一日実施でなければならなかったのか、その論拠については人事院自身も全く説明しえていない。人事院は、昭和四六年の勧告において「この勧告の基礎となっている官民給与の格差が昭和四六年四月を基準としていることにより、この改定は五月一日から実施すること」という全く矛盾した内容の勧告を行ったが、右各闘争を経て、昭和四七年には「給与改定の実施時期については、民間の事業所の約七〇%において給与改定が四月から行われるに至っている実情もあり、本院において種々検討を重ねた結果、四月一日とすることにした。」との説明の下に、四月一日実施を勧告し、その後これが踏襲されるに至ったのである。
本件の五・二〇および七・一五闘争の具体的目標は、人事院勧告の右のような不合理を是正させ、勧告の四月一日実施を要求するものであり、結局のところ、これらの各争議行為も人事院勧告制度が代償措置としての本来の機能を果たすことを求めるものであったのである。
2 本件各ストライキ当時の経済・財政事情
(一) 右に述べたところから明らかな如く、政府解釈をもってしても、政府は人事院勧告の完全実施(勧告制度が予定している本来の機能からして当然のことながら実施時期を含めてである)につき最大限の努力義務を国公法上、憲法上負っているのである。従って、政府が実施時期につき、勧告に従わなかったことが違法とならないためには、最大限の努力を尽くしたとされる場合でなければならないのである。そこで、その検討の為に、以下で当時の経済、財政事情をまず検討することとする(<証拠・人証略>)。
(二) 昭和四〇年代前半のわが国の経済事情、財政事情についてみると、昭和三九年から四〇年にかけては不況であったが、四〇年の後半から景気が回復し、ドルショック頃までの時期は、「いざなぎ景気」とよばれた、戦後最長、最大の景気上昇期であった。
これを経済成長率(実質)についてみると、昭和四〇年度は六・四%、四一年度は一一・六%、四二年度は一〇・九%、四三年度は一三・五%、四四年度は一二・二%、四五年度は八・八%であり、一〇%台の高い成長率が、このように何年にもわたって続いたことは、世界に例をみないことである。フランス、イタリア、アメリカ、西ドイツなどに比べて二倍から三倍の成長率であった。また年度当初の政府の見積りと実際の成長率をみると、昭和四一年度では見積りが七・五%に対して、実績は一一・六%、四二年度は見積りをやや高くしているが、見積りが九%に対して実績は一〇・九%、四三年度に至っては、見積りが七・六%に対して実績は一三・五%と、二倍近く見積を上廻っている。四四年度は見積り九・八%に対して、実績は一二・八%というふうに、実質成長率はいずれも当初見積りを大きく上廻っている。したがって、国家財政も、当然に大幅増となるわけで、これを一般会計の伸び率でみると、昭和四〇年度は一二・四%、四一年度は一七・八%、四二年度は一四・八%、四三年度は一七・五%、四四年度は一五・八%、四五年度は一八・〇%であって、二桁の伸び率を示しており、しかも二〇%に近いものが多いのである。したがって地方財政にかかわる地方交付税交付金(所得税、法人税、酒税の国税三税の三二%)も、当時は大幅に伸びていたのである。
また予算編成のさいに内閣によって示されるシーリング(概算要求基準)についてみても、昭和四〇年度から四二年度までが「三〇%増の範囲内」、四三年度から五〇年度までが「二五%増の範囲内」となっており、かなりの余裕があったことが窺える。
租税の自然増収額をみても、昭和四一年度は、一、一九〇億円、四二年度は七、三五三億円、四三年度は九、四七六億円、四四年度は一兆一、九〇五億円、四五年度は一兆三、七七一億円となっており、これまた大変な高額を示している。
他方、人事院勧告の完全実施に必要な追加所要額(逆にいえば値切った額)は、昭和四一年で一九八億円、四二年で一九〇億円、四三年で一八〇億円、四四年で一九三億円であり、きわめて小規模な額であって、以上に述べたこの時期の財政事情からすれば、人事院勧告は、財政上十分に実施可能であったことが明らかである。
因みに財政法四一条の剰余金(決算剰余金)は、昭和四一年度で九三〇億円、四二年度で一、八六四億円、四三年度で一、二二八億円、四四年度で一、九一四億円であり、人事院勧告の完全実施のための追加所要額をはるかにこえる金額であり、人事院勧告を完全実施してもなおかつ財政上十分な余裕があったのである。
参考までに、一般会計の総額(当初予算プラス補正予算)、右の人事院勧告の完全実施に必要な追加所要額(値切り額)、その一般会計の中で占める比率、及び決算剰余金を一覧表化すると、次の如くである。
(三) 右で明らかなとおり、本件各闘争当時、人事院勧告を完全に実施するうえで財政上の支障は何ら存在しない。その他、政府の努力にもかかわらず勧告を完全実施出来ない理由も全く見出し難い。あり得るとすれば、政府が人勧を完全実施するか否かの政策選択の問題のみである。しかし、人勧の完全実施を怠るとの政策選択が国公法上誤りであったことは、昭和四五年の政府答弁によって明らかにされている。そして、それが憲法上求められる代償措置の運用として許されないことも、既に明らかにしたとおりである。
<省略>
3 結論
本件昭和四三年、四四年の各闘争は、昭和四一年以来公務員共闘が、求めて来た人事院勧告完全実施闘争の一連のストライキ事案である。この間のストライキ目標は、人事院の勧告の実施時期につき勧告どおりの実施を求めたものである。右公務員共闘の実施時期をめぐる要求は、昭和四〇年以来人事院自ら勧告の遵守を政府に強く求めていたものであり、昭和四五年に政府も、人事院勧告制度を尊重するということは、勧告どおり完全に実施することであると認めたのである。つまり人事院勧告制度が「制度本来の機能」を果たすとは、人事院勧告が勧告どおり実施されるということに他ならない。昭和四六年の各闘争もまた人事院勧告本来のあり方として、勧告実施時期を四月一日とすることを求めたものである。原判決は、「実施時期の点において勧告どおりの完全実施が行われている」ことをもって、「代償措置としてそれなりの機能は一応果たしている」というのである。つまり、公務員給与の引上げにおいて、改善時期が遅れる程度は公務員として受忍すべきだというのである。公務員組合が、そして公務員が、公務員給与の改善時期を民間と同じにするという要求を実現するためにどれだけの犠牲を払い、またそのことが国会においてどれだけの重要問題であったかを原判決は全く理解していないのである。かかる態度は司法の国民からの信頼を失わせるものであり、司法の権威を自ら放棄するものである。
昭和四八年四月二五日、今から約一九年前に、最高裁は代償措置の存在を一つの理由として公務員の争議行為全面禁止法制を合意とした。そして、五・二一判決、五・四判決と相次いで判例変更を行った。そし(ママ)て、五・二一判決、五・四判決と相次いで判例変更を行った(ママ)。ここで看過してならないことは、右各判例変更が行われたこの時期、本件各闘争を経て、人事院勧告、人事委員会勧告の完全実施が確立されていたことである。本件各闘争から既に二〇年余が経過している。その間わが国の経済事情はもとより、わが国が占める国際的地位は驚くばかりの発展を遂げている。そしてわが国の公務員労使関係もまた大きな変化をして来ている、司法のみがその変化に取り残されることを真剣に危惧する次第である。
原判決の右の如き判断は、原判決が憲法二八条の要請する代償措置としての要件につき十分な考慮を尽くさず、その結果として、本件各懲戒処分を憲法二八条に違背しないと結論したものであって、すなわち、原判決は憲法二八条の解釈適用を誤ったという他ない。
第四章 原判決には、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背がある
一 原判決の法令違反の概要
原判決は、上告人らの地公法違反事実を認定した上、上告人らの主張する本件懲戒処分の裁量権濫用の主張を排斥した。しかしながら、原判決のこの判断は、行政事件訴訟法三〇条に定める「行政庁の裁量処分については、裁量権の範囲をこえ、又はその濫用があった場合に限り裁判所は、その処分を取り消すことができる」との規定の解釈適用を誤るものである。
右行政事件訴訟法に定める裁量権濫用中、公務員の懲戒処分に関しては、昭和五二年一二月二〇日最高裁第三小法廷判決(以下「全税関事件判決」と略称する)(最民集三一巻七号一一〇一頁参照)は、裁量権濫用の判断基準として「社会観念上著しく妥当を欠(く)」という基準を判示した。
しかしながら、「社会観念上著しく妥当性を欠く」かどうかの判断も、右基準が抽象的であるため具体的事件に適用する場合、如何なる場合に裁量権濫用があったと判断すべきなのか明確でない。
本判決を解説した越山安久調査官(当時)の説明によると「処分権者の第一次的な裁量判断が既に存在することを前提として、その判断過程に著しく合理性を欠くところがあるかどうかを検討すべきであっ」て、「具体的事案において、当然考慮されてしかるべき重要な要素が考慮されていたのかどうか、あるいは考慮されてはならない要素が考慮されていなかったかどうか、その考慮の有無の結果、処分が著しく妥当を欠く結果になっていないかどうか、というような裁量権行使の著しい不合理性を示す事情の有無を中心とし、裁量権の逸脱、濫用の有無を調べる観点から審査を行うべきもの」(最高裁判所判例解説民事編昭和五二年度四三〇頁)と述べている。
最高裁判所の判示した「社会観念上著しく妥当性を欠く」という裁量権濫用基準を右のように解すると、それは講学上に言うところの「要考慮、他事考慮」事項を指すものということになろうか。
要約すれば、処分権者の判断要素・判断過程を検討し、「重要な考慮すべき事項、又は、重要な考慮してはならない事項」の重大な評価の欠落や誤りがあり、その結果、処分が著しく妥当性を欠いた場合に、裁量権の逸脱があることになると考えられる。
ところで、原判決が本件処分の裁量権逸脱、濫用に関する上告人らの主張を認めなかった判断は、本件処分の裁量権濫用の有無に重大な影響を与える人勧の実施時期の値切りや、違法争議行為参加者に対する懲戒処分に関する国際労働常識を欠落して全く考慮しなかったばかりでなく、本件ストライキの手段、態様、結果、影響等については、経験則違反、審理不尽があり、著しく不当な事実認定および評価をなし、考慮すべきでない事項を過大に考慮するなどの誤りがある。これら「要考慮、他事考慮」の誤った解釈適用は、「社会観念上著しく妥当を欠(く)」との最高裁判決の解釈を誤り、行政事件訴訟法三〇条に違反するというべきである。
二 原判決の本件処分の裁量権濫用判断の問題点
1 原判決の事実認定とその評価
原判決は「当裁判所は、控訴人らの請求を失当として棄却すべきであると判断するが、その理由は次のとおり読替え加除し、改めるほか、原判決がその理由中控訴人らの関係部分で説示するとおりであるから、これを引用する」としているので、一審判決を原判決に従って訂正すると、懲戒権濫用に関する判断部分のうち、事実認定および評価の部分は次のとおりである。
「2(1) これを本件についてみるに、本件各争議行為は前記認定のごとく、いずれも人事院勧告の完全実施等を目的として公務員共闘が行う全国的な統一賃金闘争に日教組が参加する形で行われたもので、原告らの行った職場離脱の時間はおおむね三〇分から一時間三〇分という比較的短時間であり、また、原告らにおいて職務放棄による授業への影響を可及的最小限に止めるよう配慮した形跡がうかがわれないわけではないが、しかし、およそ教職にあにる公務員が明らかに法で禁止されている争議行為に及ぶということ自体の児童、生徒や父兄等に与える心理的影響には決して無視できないものがある。しかも本件は当局側において事前に争議行為に及ばないよう再三にわたり厳重に指導、警告しているにもかかわらず、あえてこれを省みず争議行為に突入したものであり、そのほか本件各争議行為は毎回約二万人を動員して計画的、組織的にほぼ全県にわたって展開されたもので社会に与えた影響の少なからぬことを考慮すると原告らの責任は重大であるというべきであって、その指導的役割を担った者はもとより、単純参加者についてもこれを懲戒処分に付することが著しく不相当であるとは到底認め難い。
(2) (証拠・人証略)並びに本件各処分の状況を総合すれば、被告県教委は本件各処分に際し、単純参加一回につき戒告、二回につき減給一月を原則とし、離脱時間の短いことを軽減事由とし、組合役職者等指導的地位にあること(本部役員、支部三役)を加重事由としてこれに修正を加える懲戒基準の下に処分を行ったが、本件各処分を受けた原告らのうち単純参加者としての最高処分は減給一月で、組合役職者としてのそれは停職六月であり、従来の処分、他の任命権者の処分、他府県の処分に比しかなり重いといえる面の存すること、しかもこれらの処分にはすべて昇給延伸を伴うものであること、また、以前の争議行為においては処分の対象の範囲が主に指導的立場の組合幹部に限定してなされ、本件のように単純参加者を含めた大量処分がなされることは異例に属することが認められるが、しかし、本件各争議行為は前述のように計画的、組織的に傘下組合員である多数の教職員を動員して全県にわたり一斉に統一実力行使に突入したもので、その回数、規模、態様等において大々的なものがあり、児童生徒や父兄延いては地域社会に与えた影響の少なからぬことを考慮すると、本件各処分は未だ社会観念上著しく裁量権の範囲を逸脱し妥当性を欠いた過酷な処分であるともいい難い」(一審判決B68~B70)。
2 右事実認定および評価の問題点
(一) 原判決の要約
原判決が、被告上告人である処分者の本件処分を正当とし、懲戒処分の裁量権濫用を認めなかった事実を項目的に摘示すれば左記のとおりとなる。
Ⅰ 上告人らにとって有利な事情
<1> 職場離脱の時間が、概ね三〇分から一時間三〇分という比較的短時間のものであった。
<2> 授業への影響を、可及的最小限に止めるよう配慮した形跡がうかがわれる。
<3> 本件処分が、従来の処分、他の任命権者の処分、他府県の処分に比しかなり重いといえる面がある。
<4> 従来の争議行為の処分は、幹部に限定され、参加者全員処分は異例である。
<5> すべて処分に昇給延伸を伴うものである。
Ⅱ 上告人らにとって不利益な事情
<1> 教職にある公務員の違法争議行為は、児童、生徒、父兄等に与える心理的影響は決して無視できない。
<2> 被上告人ら当局側は、事前に争議行為に及ばないように再三にわたり厳重に指導、警告している。
<3> 本件各争議行為は、毎回二万人を動員してなされた計画的、組織的に全県下にわたって行われたので、回数、規模、態様において大々的であり、社会に与えた影響はすくなからぬものがある。
結局原判決は、右Ⅰ、Ⅱの事情を考慮して、Ⅱの事情を理由に「本件各処分は、未だ社会観念上著しく裁量権の範囲を逸脱し妥当性を欠いた」処分とは言えないとしたものである。
(二) 原判決の問題点
(1) 原判決の審理不尽
原判決の本件処分に関する裁量権濫用の有無についての右判断には、重大な考慮されるべき事項に対する判断遺漏がある。それは、本件争議行為中、昭和四三年一〇月八日、昭和四四年七月一〇日、昭和四四年一一月一三日(以下、それぞれ一〇・八、七・一〇、一一・一三と省略する)に行われた争議行為の目的が、人事院勧告完全実施を求めたことを無視するものである。人事院勧告完全実施の尊重義務を負う被上告人を含めた当局側の信義則違反ともいうべき人勧の実施時期の値切りという不当な行為に対してなされたささやかな争議行為であったことを見忘れるものである。又、憲法原理として国際協調主義をとる我が国で、I・L・Oの重要機関である結社の自由委員会や専門家委員会が再三にわたって争議行為の参加者全員処分に対する批判的見解を表明している重大な事実も、人勧の実情と同様、全く考慮した形跡がない。右二つの事項は、被上告人の処分に際し、考慮されてしかるべき重要な事項であって、これを欠落することは裁量権濫用判断に影響を与える重大な法令違反があるというべきである。
(2) 原判決の採証法則、経験則違反
原判決には前記(二)のⅡの項で指摘したとおり、上告人らに不利な事項として、教職員が実施する違法ストは児童、生徒や父兄に対して心理的影響を与えるとか、本件ストが社会に与えた影響は無視しえないとか強調しているが、具体的に、本件各ストが児童、生徒、父兄及び社会に与えた影響を立証する証拠はない。(なお、この点については、原判決一、七(三)教職員に地公法三七条一項を適用することは、憲法二八条に違反するとの項で、教職員のストの及ぼす影響を述べているので、その批判の詳細は後記のとおりである)。教職員が違法行為を行うことは、子供の遵法精神をゆがめるということなのであろうか。かかる事実認定は証拠に基づかない採証法則に違反するというべきである。又、本件各ストが、ストの本質上、計画的、組織的に行われるのは当然であり、回数にしてもわずかに年一回乃至二回、それとても三〇分乃至一時間三〇分という短時間のストである。しかも福教組、福高教組という単組のストである以上、全県下にわたること必定であって、何等異にするところはない。それを恰も「児童、生徒や父兄延いては地域社会に与えた影響の少なからぬ」ものがあると認定、評価することは、採証法則、経験則に違反するというべきである。
三 原判決の本件懲戒処分の裁量権濫用判断要素・判断過程における経験則違反、採証法則違反、審理不尽について
1 人事院、人事委員会勧告(以下両者を併せて人勧と略称する)の不完全実施について
(一) 人勧の法的意義
人勧は、公務員の労働基本権制約にみあう代償措置である。
四・二五判決は、国家公務員の争議権剥奪を合憲としたが「労働基本権を制限するにあたっては、これに代わる相応の措置が講じられなければならない」とし、人事院勧告をその代償措置の一つとしている。そして、裁判官岸盛一、同天野武一の追加補足意見は、労働基本権を制限した場合の代償措置について次のような詳細な見解を明らかにしている。
「(1) まず、多数意見は、憲法二八条の勤労者のうちには、公務員(非現業の国家公務員をいう。以下同じ。)も含まれるとの見解にたちながらも、公務員の地位の特殊性とその職務の公共性とを考慮にいれるとき、公務員の勤労関係を規律する現行法制のもとでは、公務員の勤務条件が法定されており、その身分が保障されているほか、適切な代償措置が講じられている以上は、国家公務員法(昭和四〇年法律第六号による改正前のもの。以下国公法という。)九八条五項の規定は、いまだ、憲法二八条に違反するものと断ずることはできないとするものである。
ところで、一般的に勤労者の争議行為を禁止するについて、その代償措置が設けられることが極めて重要な意義をもつものであることは、いわゆるドライヤー報告やI・L・O結社の自由委員会でもたびたび強調されているところであり、その事例を枚挙するいとまなしといっても過言ではないのであるが、公務員に関してもその争議行為を禁止するについては、適切な代償措置が必要であることが指摘されているのである(結社の自由委員会第七六次報告第二九四号事件二八四項、第七八次報告第三六四号事件七九項等)。ところが、わが国で、公務員の争議行為の禁止について論議されるとき、代償措置の存在がとかく軽視されがちであると思われるのであるが、この代償措置こそは、争議行為を禁止されている公務員の利益を国家的に保障しようとする現実的な制度であり、公務員の争議行為の禁止が違法とされないための強力な支柱なのであるから、それが十分にその保障機能を発揮しうるものでなければならず、また、そのような運用がはかられなければならないのである。したがって、当局側においては、この制度が存在するからといって、安易に公務員の争議行為の禁止という制約に安住すべきでないことは、いうまでもなく、もし仮にその代償措置が迅速に公平にその本来の機能を果たさず実際上画餅に等しいとみられる事態が生じた場合には、公務員がこの制度の正常な運用を要求して相当と認められる範囲を逸脱しない手段態様で争議公務員にでたとしても、それは、憲法上保障された争議行為であるというべきであるから、そのような争議行為をしたというだけの理由からは、いかなる制裁、不利益をうける筋合いのものではなく、また、そのような争議行為をあおる等の行為をしたからといって、その行為者に国公法一一〇条一項一七号を適用してこれを処罰することは、憲法二八条に違反するものといわなければならない。
もっとも、この代償措置についても、すべての国家的制度と同様、その機能が十分に発揮されるか否かは、その運用に関与するすべての当事者の真摯な努力にかかっているのであるから、当局側が誠実に法律上および事実上可能なかぎりのことをつくしたと認められるときは、要求されたところのものをそのままうけ容れなかったとしても、この制度が本来の機能をはたしていないと即断すべきものでないことはいうまでもない。
以上のことは、多数意見においてとくに言及されていないが、その立場からは当然の理論的帰結であると考える。」
なお、右岸・天野追加補足意見が問題としている代償措置とは「公務員の勤務条件が法定され、その身分が保障されているほか適切な代償措置」とか、「それが十分に保障機能を果さず実際上画餅に等しいとみられる事態が生じた場合」と述べているところからすると、人事院勧告制度と勧告の作用を重視していると思われる。
なお、岸・天野両裁判官による追加補足意見について、第三章で詳論しているので、それをここに引用する。
本項では、懲戒権濫用の有無についての人勧の機能について、考慮されるべき重要な事項である理由を明らかにするものである。
右にみたように、岸・天野両裁判官の追加補足意見には、代償措置を重視して「この代償措置こそは、争議行為を禁止されている公務員の利益を国家的に保障しようとする現実的な制度であり、公務員の争議行為の禁止が違法とされないための強力な支柱なのであるから、それが十分に保障機能を発揮しうるものでなければならず、また、そのような運用がはかられなければならない」と強調しているのである。
したがって、原判決が本件処分の裁量権濫用の有無の判断にあたって、代償措置である人勧が、当局によってどのように取り扱われたか、保障機能を発揮するよう運用がなされたかどうかを十分に考慮しなければならない事項にあたるというべきである。
(二) 人勧の法的効力
人勧には、法的拘束力がないと解されている。国公法一八条一、二項、地公法二六条は、職員の給与に関する勧告権をそれぞれ定めている。たしかに、財政民主主義しいては、議会制民主主義が制度として憲法上保障され、それによって公務員のスト権剥奪が合憲とされる以上、人勧に法的拘束力を認めることはできない。
しかし、法的拘束力が認められないからといって、人勧に何等の法的効力も認められないことにはならない。法に規定される以上、法の性質からいっても、何等かの法的効力を帯有することを否定することはできない。
例えば、人勧(代償措置)に対する右岸・天野両裁判官の追加補足意見は、その典型であるといえよう。
人勧は一般に「勧告は通常法的拘束力を有するものではないから、勧告の不遵守によって、勧告をうけたものが法的義務違反を問われることもない。しかしながら、勧告にはその受け手が尊重すべきであるということが、法律上も本来的に要請されているといってよいであろう」(逐条国家公務員法鹿児島重治・森園幸男・北村勇編学院(ママ)書房二六四頁、二六五頁)と解されている。
なお、人事院の給与表に関する勧告の効力について、佐藤功・鶴見良一郎著公務員法(日本評論社)一四六頁以下で、次のとおり詳細に解説している。
「勧告の尊重という目的は本質的には勧告であれ、意見の提出であれ、あるいは答申であれ上申であれ、どのような文字が使われていようとも、少なくともある機関に意見を進めるという場合のすべての場合に存する問題である。ただ、前にのべたように勧告が同級機関相互間にも行われるという点が異なる。また現行の立法例において勧告が他のものに比較していわば拘束力が強い、またはいわば重みがあるとして取り扱われている。すなわちこれらの勧告なり答申なりの制度は、行政部内においては、内閣、各大臣等の勧告または答申を受ける者が、自らの固有の補助機関だけの補助では不十分であり、何らかの特別の、すなわちその所管事務について専門的な知識や能力を有し、その意味で優越した権威を有すると考えられる機関または国民各層の意見を代表する機関の助力を受ける必要があるという場合に設けられる制度なのである。そして勧告の権限を与えられる機関は、この特殊な助力機関のなかで答申をするだけの機関よりも、その構成員の専門的能力の権威または構成員の民主性等に基づいてさらに重要な機能を期待されている機関であるということができよう。……略……
そしてこのことは、国会に対する勧告権を有する機関についていっそうあてはまるのである。国会は国民代表機関でありまた最高機関ではある。しかし、国会といえどもやはり特殊な専門的事項については必ずしも万能であるといえない場合もあり、また実際的には必ずしも国民のあらゆる階層の意見を代表するといえない場合もある。したがって、国会以外において、国民のいわば職能的代表機関が設けられている場合には、その意見を国会といえども相当の程度において尊重すべきである。このことは何ら国会の最高機関性と矛盾するものではなく、むしろそれらの機関の意見を取り入れて真に妥当な結論を出すことが国会をして最高機関たらしめるものであると考えられる。地方行政調査委員会議が国会に対して勧告権を与えられるのは、国と地方公共団体の双方の意見がこの委員会議に十分に結晶することが期待され、国会といえどもそれを尊重すべきものと考えられているからである。
人事院が特に政府職員の問題について内閣および国会に勧告権を認められているのも、根本的には右のような立場で理由づけられる。すなわち、人も知るように、第三国会における国家公務員法の改正によって、従来、給与が組合と政府との団体交渉によって定められていたことに弊害があるという立場に立って、それを人事院の科学的な十分な調査研究によって定められるべきものとされたのであった。すなわち人事院に対して、この法律は、このような権威を与えたわけである。国会もそれを認めたわけである。したがって国会は、その最後の決定はもとより自らに留保しつつ、この人事院の勧告に対して尊重すべきであるということを、この法律改正の際に自ら認めていたわけである。内閣についても同様である。内閣は組合と自らとの団体交渉による給与の決定という従来の方式をすてて、その権限を人事院に認めたのである。人事院の勧告を内閣も尊重すべきであることは当然であるといわなければならない。
すなわち人事院の勧告の拘束力、或いはその勧告の性格、さらには人事院そのものの性格等の問題は、このような根本的な立場で考えられるべきではないかと思われる。」
言うまでもなく、給与に関する人勧が、完全に実施されるかどうかは、労働基本権を制約された公務員にとっては、重大且つ直接の利害関係を有する。政府又は国会が、「科学的な十分な調査研究」によってなされた人勧(民間準拠を中核とした)を完全実施しなかった場合は、完全実施されなかった分、人勧を尊重しなかったこととなるのであるから、「団体交渉という従来の方式をすてて」人勧方式をとった以上、完全実施しなかった政府及び国会、特に政府は、公務員に対し、その分についての尊重義務違反の責めを負うことになる。
その尊重義務違反は、政府及び国会に対し、尊重を強制できないからといって、公務員の蒙る給与の損失に対しても、すべてが免責されることにはならない。人勧の尊重義務は、公務員の給与の決定方式として、殊に政府と公務員間の労使関係を支配する信義則の原則が働くものと解すべきである(田中二郎行政法総論法律学全集五巻一八三頁)。この理は、人事委員会勧告に対する県当局および議会の人勧尊重義務についても同様である。
従って、本件事案中「一〇・八」「七・一〇」「一一・一三」のように、政府の人勧実施時期の値切りという尊重義務違反に対し行われた単純不作為の同盟罷業しかも、極めて短時間の争議行為に対し、同様に人勧尊重義務を負う県当局の一員である(地方教育行政の組織及び運営に関する法律二九条の知事の教育委員会に対する教育予算意見聴取義務)県教委に、人勧不完全実施の信義則違反があるにもかかわらず、任命権によって、上告人らを懲戒処分にするのは、信義則違反、公平原則違反があるものというべきである。
なお、本件争議行為の目的は、人事院勧告完全実施であるが、このことは、地方公務員の条例上の給与決定権者である知事及び議会の人勧完全実施義務を免除すものではない。
公立学校に勤務する教職員は、地方公務員であるから、その給与は条例で定められる(地公法二四条六項、二五条一項)。又、地方公務員の給与の決定方式は、地公法一四条のいわゆる情勢適応の原則、同法二四条一項のいわゆる職務給の原則、同法二四条三項の均衡の原則を考慮して、給料表に関する人事委員会勧告(地公法二六条)下で、県知事の予算案提出(地方自治法一四九条一、二号、同法二二条)、県議会の議決(地方自治法九八条)で決定される。それにもかかわらず、県知事は、人事委員会の勧告に関係なく、政府の人事院勧告と殆ど同一に人勧を取り扱っている。そのため、地方公務員の職員団体は、国家公務員の職員団体と共に、力を一つにして人事院勧告完全実施を求めざるを得ないのである。だからといって、法律上の給与の決定権者としての知事や知事に意見を具申できる県教委の人事委員会勧告に対する尊重義務が消滅したり、免責されたりするものではない。
(三) 人勧不完全実施の国会決議違反
昭和四五年人勧完全実施に至るまで、人勧制度発足以来、勧告がなされなかったり、実施時期が遅らされるなど、完全実施されることは殆どなかった(完全実施されたのは昭和三〇年度のみである)。
その状況は左表のとおりである(略)。
俸給表の改定が、勧告されたのは、昭和三四年七月一六日の人事院勧告からであったが、右表のとおり、実施時期は一年遅れた昭和三五年四月一日からであった。それ以来昭和四五年度に至るまで、人勧実施時期は一〇年に亘って値切られ続けた。
この間、国会は、値切り続ける政府に対し、人勧を尊重し、完全実施を求める決議を再三に亘って行っている。
<1> 昭和三九年一二月七日衆議院内閣委員会附帯決議
「公務員の給与については、政府は人事院勧告尊重の趣旨を体し、今後これを完全に実施しうるよう予算措置を講ずることに最善を尽くすべきである。」(<証拠略>「第四七回衆議院内閣委員会議録第三号一八頁上段)。
<2> 同年同月一六日衆議院内閣委員会<1>と同様の附帯決議
<3> 昭和四〇年一二月二四日衆議院内閣委員会附帯決議
「公務員の給与については、政府は人事院勧告尊重の趣旨にかんがみ、今後これを完全に実施し得るよう予算措置を講ずることに最善を尽くすべきである。」(<証拠略>「第五一回衆議院内閣委員会議録第三号」三五頁下段)。
<4> 同年同月二七日参議院内閣委員会同趣旨の附帯決議(<証拠略>)
<5> 昭和四二年一〇月二〇日参議院内閣委員会附帯決議
「公務員の給与については、人事院勧告を尊重し、これを完全に実施すべきである。これが完全に実施せられるよう最善を尽くすべきである。」(<証拠略>)。
<6> 同年一〇月二三日衆議院内閣委員会決議
「公務員の給与については、昭和四〇年一二月二四日本委員会が行った決議の趣旨に基づき、人事院勧告を尊重し、これを完全に実施すべきである。」(<証拠略>「第五六回衆議院内閣委員会議録第五号」一頁二段目)
<7> 同年一二月一五日衆議院予算委員会決議
「公務員の給与については、漸次改善されつつあるが、政府は今後とも人事院勧告を完全実施するよう最善の努力をすべきである。」(<証拠略>「第五七回衆議院予算委員会議録第六号」三二頁)
<8> 同年一二月二二日参議院内閣委員会決議
「人事院勧告に基づく公務員給与の改定は漸次改善されつつあるが、その実施時期については未だ完全実施されていない。よって政府は、これが完全実施のための財政上の措置等について速やかに考究し、今後の給与改定に万全を期すべきである。」(<証拠略>)
<9> 昭和四三年一一月一二日衆議院内閣委員会決議
「公務員の給与については、昭和四〇年一二月二四日本委員会が行った決議の趣旨に基づき、人事院勧告を尊重し、これを完全に実施すべきである。」(<証拠略>「第五九回衆議院内閣委員会議録第八号」一八頁三段目)
<10> 同年一二月一九日衆議院内閣委員会決議
「政府は、人事院勧告制度の本旨に基づき、昭和四四年度は、これが完全実施に努力すべきである。」(<証拠略>「第六〇回衆議院内閣委員会議録第三号」八頁上段)
<11> 同年一〇月一七日参議院内閣委員会決議
「公務員の給与に関する人事院勧告については、その制度の趣旨にかんがみ、これを完全に実施すべきである。」(<証拠略>)
人勧の完全実施を求める衆参両議院の各委員会で、一一回に及ぶ決議がなされても、政府は、昭和四五年度に至るまで人勧を完全実施しなかった。
しかも、昭和四〇年代に入ると、景気上昇期に入り、政府の答弁によっても「財政事情」によるものではなく、補正予算の編成が面倒であったにすぎなかった(<証拠略>大出証言調書八三頁以下)。
従って、政府の人勧尊重義務の懈怠は、右各国会決議に照らし、当然に免責できるものではなかったのである。
(四) まとめ
以上の事情は、人勧尊重義務を全うしない行政当局側によってなされた本件懲戒処分の裁量権濫用の判断にあたって、重要な考慮さるべき事項にあたり、その考慮を全く欠く原判決は、判断遺漏、経験則違反、審理不尽のそしりを免れないというべきである。
2 参加者全員処分、毎回処分、過重処分に対象するI・L・O見解について
(一) I・L・Oの違反行為に対する制裁の原則について
I・L・Oは、ストライキ禁止の違反行為に対する制裁は必要最小限度にすべきであるという見解を繰り返し示してきた。そして、I・L・Oはこの原則に基づいて、わが国の行政当局がストライキ参加者に対して大量処分を行ってきたことについて、一貫して強い批評を加えてきている。
(1) ドライヤー委員会の報告
ドライヤー報告は次のように述べている。
「公共部門において、ストライキのみならず、一律に争議行為を禁止するというこれまでとられた政策は、批判を必要としている。一定の事業がストライキの禁止を正当とする程に公共の利益と密接な関係を有する分野においても、その他のあらゆる種類の団体行動が当然禁止されるべきであるということにならない。公共部門において起訴され、解雇され、戒告を受け、その他の懲戒を受けた労働者層の著しい増加に寄与したのは、この頑固な態度である。」(二一三頁ドライヤー報告片岡・中山訳労働旬報社版五四八頁)
(2) 結社の自由委員会の報告
わが国の官公労働者のストライキに対する大量処分について申立られた七三七号ないし七四四号事件についての結社の自由委員会第一三九次報告(一九七三年)も、次のように述べている。
「委員会は、処分を課することがストライキの発生ごとに不可避なものと考えられるべきであるとは確信しないと述べておきたい。委員会は、懲戒処分の適用に当たっての弾力的な態度が労使関係の調和的な発展により資するものであることを指摘しておきたい。委員会は、本項で述べた考察に注意を喚起すること並びに懲戒処分の適用に関して、特にストライキ参加者に対するそのような制裁の適用から生ずる報酬上の恒久的な不利益及び関係労働者のキャリアに対する不利益な結果について政府に示唆したことを想起することを理事会に勧告する。」(ILO関係資料集法曹会二三一頁、一二四項)。
(3) 条約勧告適用専門家委員会意見
さらに、条約勧告適用専門家委員会も、わが国における懲戒処分の適用について、再三にわたって再考を求めている。その中で、一九八四(昭和五七)年の報告では、日本関係の個別意見として、次のように述べている(<証拠略>「労働省仮訳」三項)
「委員会は、均衡を失する制裁の適用は調和的な労使関係の発展に資するものではないと考える。一般に、ストライキ権及び懲戒処分の適用の問題に関して、委員会は、政府が上記のような原則に照らして現状を再検討すること及びこれらの原則の適用に関してとられ得る方策に関する情報を提供し続けるよう要請したい。」
(4) 公務合同委員会の報告
また、ILO公務合同委員会も一九七一年の報告で次のように述べている。
「公務員の作業停止は刑事的及び行政的犠牲をもって罰されがちな、単なる公共的混乱とみなされるべきではないという点で広く意見が一致した。」(前掲一五六頁八六項)。
(二) ILO見解と国際協調主義
憲法前文には「いずれの国家も、自国のみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立つとする各国の責務であると信ずる」と謳い、「国家協調主義」を宣明し、九八条二項では「日本国が締結した条約及び確立した国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と規定し、条約及び国際法規の遵守を定めた。
たしかに、ILOの見解をもって直ちに国際法規というのは、即断のそしりをまぬかれないところであろう。しかし、専門家委員会は、「委員が最高の地位と独立な人々によって構成され、審査が公平で客観的であること(一三七―一三九頁)、審査の結論が関係国によって実際に受け入れられることが多いこと(一四八頁)によって、ILOの全統制制度のかなめになっている(一四一頁)。」(組合の自由横田喜三郎有斐閣一三七頁)と言われる程権威のある機関であること、又、結社の自由委員会は「結社の自由委員会は、それ自身の職務が根本的に変化したばかりでなく、ILO全体にとっても、もっとも基本的な任務である結社の自由の保障に関して、きわめて重要な役割をはたすことになった」と言われ、結社の自由保障の中核となって活動している。
ILOは、国際労働機関であり、国連の労働に関する専門機関(右組合の自由五頁)である。その機関のもっとも重要な活動をしている条約勧告適用専門家委員や結社の自由委員会が、公務員のストライキに対する懲戒処分について厳しい批判をしていることを、政府や県当局が全く無視している態度は、どうみても憲法の国際協調主義に背を向けるものとのそしりをまぬかれないところであろう(<証拠略>「国際基準とILO」ニコラス・バルティコス著三省堂参照)。
(四) まとめ
右にみたように、処分権者である被上告人県教委の、ILOの見解を無視した参加者全員処分、二回目からの加重処分、処分にともなう昇給延伸を改めない態度は、憲法原理である国際協調主義に反するものとして、本件処分の裁量権濫用判断に際し、考慮されるべき重要な事項というべきである。
しかるに、この処分者の国際協調主義無視という重要な事項について、原判決は何ら判断をしていない。これは明らかに、判断遺漏、経験則違反、審理不尽があるというべきである。
3 本件争議行為の手段、態様、結果、事実認定、評価に関する採証法則違反、経験則違反、審理不尽について
(一) 本件争議行為の手段方法
本件争議行為の目的は、前記のとおり、人勧の実施時期の完全実施を目的にするものであった。これに対するストライキの手段方法は、単純な職場離脱という同盟罷業で、その時間を「おおむね三〇分から1時間三〇分」(一審判決B68原判決の確定した事実である)という、争議行為としては最短時間といえるものである。
しかも、日教組傘下の各都道府県単位に全組合員より無記名投票による批准投票が行われた上で実施されたものであった(<証拠略>)。
また、人勧実施状況一覧表にみられるように、政府、県当局は、日教組がストライキを組織しなければその実施時期を繰上げることがなかった(<証拠略>)。
こうして、目的の重要性、切実性との均衡をはかって、それに相応する程度の争議行為として、日教組は右各ストライキの規模を決定、実行したのである。
それは、まことにささやかな争議行為というべく、原判決のような「比較的短時間」などの評価は、著しく正鵠を欠くものというべきである。
(二) 本件争議行為の児童、生徒、父母に与えた影響について
原判決は、本件争議行為の児童、生徒、父母に与えた影響について、一審判決のこの部分の認定を更に詳細な説明を付して次のように変更した。すなわち、
「確かに、年間の授業計画には相当の柔軟性があるところから、争議行為による授業の一時的な遅れは、その後の努力によって回復可能であることはそのとおりかも知れないが、問題はそのこと自体より、異論があるにせよ、自らの主張を通すために児童、生徒に対する授業を怠業することによって児童、生徒ないし父兄の教職員に対する信頼感を失わせ、あるいは遵法精神の涵養、規律ある行動といった徳育面での指導において致命的な負担を負うことになる可能性があること、あるいは争議行為をめぐる管理者と組合員である教職員との軋轢が教育現場に露呈し、教育面でも同様の負担を負いかねないことの方が影響が大きく無視し得ないものがあ(る)」。
右の原判決の認定は、第一にすべて推論又は憶測であって、証拠によって何も立証されていないこと、第二に教育の現場の実態を完全に無視していること、第三には、一部道学者のいう教育観を絶対としていること等の主観的評価に陥っている。このような考え方は、争議権が基本的人権であり、その制限にあたっては、最大の尊重(憲法一三条)がされなければならないから、争議行為の及ぼす悪影響についても抽象的なおそれであってはならず、具体的な「おそれ」でなければならないという原則に反するものである(必要最小限度原則参照)。
この点については原審最終準備書面第四章第八六頁において、上告人は、証拠を摘示して具体的な悪影響の存在していない事実を反論しているところであるが、その主張を再度ここに引用する。
「この点については当審における控訴人本人らも、本件各争議行為については学校長などと『十分配慮会議をしながらスト当日のその時間に、学校運営上、支障がない状況』で実施しているから『子供たちに、直接、精神的な心理的な不安を、まあ自分たちのストライキのために持たせたとかあったということはなかった』(<証拠略>)、『(本件各争議行為のときにも、事前に十分な生徒対策を行っていたので普通の学校生活とそれほど大きく変化は、子供たちとしては、とらえてなかったんじゃないかというふうに受けとめています』(<証拠略>)、『(本件闘争のあとの生徒達の教員に対する態度について)変化はありませんでした。むしろですね、私達もちょっとした話の中ではですね、こういうことがありましたね、私も家庭訪問で何回か自分の給料をそ(ママ)そのとき話したことがあるんですが、若い先生も自分の給料袋で賃金の話をした場合もありますが、その中で先生達の給料は思ったより安いですね、という生徒の意見もありました』(<証拠略>)などと供述している。
争議行為について生徒がどのような精神的影響をうけたかうけなかったかは、教育の現場で直接生徒に日常的に接触している教師こそが最もよく判断できる性質のものである。その現場の教師達が自分達の体験に基づいて右のように供述しているのであるから、その判断は十分に尊重されなければならない。
また原判決は準備書面(八)で指摘したように『児童・生徒』とともに『父兄等に与える心理的影響』を挙げている。この原判決の判断が何の根拠にも基づかない観念的なものにすぎないことについても先に準備書面(八)で指摘したところであるが、この点についても当審において控訴人の一人は、父兄も自分達の日常の教育活動の取り組みや賃金が安いことを知っていたので、非難がましい態度をとることもなく、むしろ頑張れというような意見もだいぶあった旨供述し(<証拠略>)て原判決のいう『父兄等に与える心理的影響』なるものが実態にそぐわないことを明らかにしている。
左記にも指摘したように教師と児童・生徒の信頼関係は教師の長期間にわたる日常的な教育活動、児童・生徒との接触交流のなかで培われたものであって、それが三〇分乃至一時間半の争議行為参加という一時的なことによって揺らぐことはない。
本件各争議行為に参加して懲戒処分をうけ、当審において控訴人本人として供述した三名の日常的な教育活動は次のとおりである。
1 坂田優美子
同人は当時福岡市立別府小学校教諭であったが、本件各争議行為は四年生(一〇・八)二年生(七・一〇、一一・一三)、一年生(五・二〇、七・一五)といずれも低学年を担当していた。
低学年は、例えば一・二年生の場合、授業時数は一日四~五時間と高学年に比して少ないが、だからといって教師の負担が楽だという訳ではない。
低学年の児童は、生活的にも、読み書きの面でも未発達であるから、学習の指導でも生活の指導でも手間ひまをかけなければならない。父兄への連絡ひとつとっても『低学年の場合は口頭で親のほうにこういうものを持たしてほしいということはちょっと正確につたわりにくいので、どうしても印刷物で家庭に持たせるということにな』る(四五項)し、学級通信も高学年に比べると『非常に懇切丁寧な説明が必要』であり(五〇項)、『その知らせる方法について、やはり非常に細かく具体的に知らせる』(同)などである。
その結果、教師の仕事は『ほとんど時間内には、そういういわゆる教材研究、指導内容についてのいろいろな研究とそれから子供たちのいろいろな提出したテスト、そのほか作品などの処理とか、そういうことがたくさんありますが、それについての時間内での処理は不可能』(五六項)という実情であった。要するに恒常的に時間外に仕事をせざるをえない状態が続いていた。
このような勤務状態の中で、坂田優美子は低学年の児童の生活的自立を最重点としながら、自分を大切にすることと共に他人のことも考える人格の形成のために尽力をしてきた。
2 太田靖
同人は本件各争議行為時は、粕屋郡宇美中(昭和四二・三年)、同須恵中勤務であったが、これら学校をとりまく教育環境は、炭坑の相次ぐ閉山に見舞われてきわめて厳しい状況であった。四四名の学級生徒のうち一二名が生活保護、教育扶助の対象家庭で、教材・教具も満足に買えない有り様であり、また非行も多かった(八項―一三項)。
こういう状況のなかで太田靖ら宇美中や須恵中の教師らは勤務時間内外を問わず、家庭訪問など生活指導に奔走していた(一五―二二項)。
太田靖が勤務していた宇美中や須恵中における生徒、父母との信頼関係は、このような勤務時間の内外を問わない教師の献身の積み重ねによって形成されている。
3 加治忠一
同人は本件争議行為時は、田川郡の田川工業高校に勤務していた。同校のある田川地区もまた、かつての炭坑地帯で、当時は相次ぐ閉山で経済的にも疲弊しきっていた。
同校生徒の家庭環境をみると九六五名の生徒のうち約二割が無職(二九項以下)、約一三〇名が片親又は両親を欠くいわゆる欠損家庭である(四七項―五〇項)。生徒達は学習意欲が全く乏しく、非行も多いという状況であった(五二項―五五項)。
このような中で教師達の苦闘が続けられる。
例えば生徒達の学習意欲を掘り起こすために、新聞を教材に使ってみたり、田川地区六校の教師が集まって地域調査を繰り返しながら教材化をしたりなど(五九項)教材ではもちろん、生徒指導の面でも、例えばホーム・ルームの時間にそれぞれの生徒が興味をもっている問題について五分ずつ全員に話させる(六九項)とか、クラス独自で昼休みや放課後にソフトボール大会をしたり(六九項)など、様々な創意工夫をこらした教育活動を行ってきた。
このような中で『いろいろ一緒にやるもんですから、その中で非常に深いつながりができましてね、全体のまとまりも非常によかった』というクラスができあがった。
その生徒達とは二〇年ちかくたった今でも同窓会でのつきあいが続いている。ここに先に述べたような日常的な献身的な教育活動の中でつちかわれてきた教師と生徒達の深い信頼関係をみてとることができる。
このような信頼関係が争議行為による授業等の教育活動の一時的中断で絶たれることはありえない。
原判決の『心理的悪影響論』なるものが全く根拠のないものであることは明らかである。
――略――
教師達は争議行為に際しても児童生徒のことを決して忘れない。本件各争議行為に際しても自分達が不在の場に備えて十分な手当をしている。
例えば坂田優美子の場合は『あらかじめ学習計画を立てまして、児童にも一応担任がいなくても自分たちで自主的な学習ができるような教材なりを準備いたしまして、そして細かく指示をして、(自分が)いない間の学習について一応それだけの配慮をして』いた(六九項)し、太田靖の場合は、前日、または前々日に会議を持って、具体的に、自習課題をつくって自習をさせることで対応し(二八項)、また『学校長のほうと十分配慮、会議をしながらスト当日のその時間に、学校運営上、支障がない状況というのを、話し合って、それを実施していた』(三二項)し、加治忠一の場合はストライキが授業にくい込むときは課題をつくって教務係に保管させ、それを校長、教頭などの使用に委ねると言う形で対処する(一一六項―一二〇項)などいずれも児童生徒に対する充分な配慮を行っていた。
これらは教師達の児童生徒に対する愛情、教育活動に対する熱意の現れであるが、この配慮もまた争議行為による教育活動の現象的な一時的中断にもかかわらず、教師と児童生徒との間の信頼関係を保持させている一因である。」
以上のとおり、原判決の本件争議行為の児童、生徒、父母に与える悪影響は、明白に仮説であって実在するものではない。このような事実認定、事実評価は、採証法則、経験則に違反し、審理不尽があるものといえよう。
(三) 本件争議行為の態様について
原判決の確定した事実によれば「本件各争議行為は前述のように計画的、組織的に傘下組合員である多数の教職員を動員して、全県にわたり一斉に統一行動に突入したもので、その回数、規模、態様等において大々的なものであり、児童、生徒や父兄延いては地域社会に与えた影響のすくなからぬ」(一審判決B70)ものがあるというのである。
しかしこの認定、評価は著しく不当と言わざるを得ない。
先ず第一に、本件争議行為が計画的、組織的に行われたことを非難するが、組合の実施する争議行為は、団結体という性質から、必然、不可避のものとして計画的、組織的ならざるを得ないのであって、単組として計画的、組織的でなく行われる争議行為は「山猫スト」等と呼ばれて、違法視されることからも明らかであろう(山猫ストさえも計画的、組織的であるが)。
第二に、全県にわたりいっせいに統一行動として突入したというが、本件争議行為は、全組合員の批准投票にかけられ、単一体として実施されたものであるから、全県にわたり一斉に統一的に行われたのは違法、合法は別として、労働基本権の行使である以上当然の行動である。それとも、部分スト、指名ストや五月雨ストの方が第三者に与える影響が少ないとでもいうのであろうか。はなはだしく団結行動を歪曲して解していると思わざるを得ない。
第三に、回数が大々的というが、本件争議行為は、一審判決の認定したところによれば、
<1> 昭和四三年一〇月八日
早朝勤務時間一時間カット
<2> 昭和四四年七月一〇日
早朝勤務時間三〇分カット
<3> 昭和四四年一一月一三日
早朝勤務時間一時間三〇分カット
<4> 昭和四六年五月二〇日
早朝勤務時間三〇分カット
<5> 昭和四六年七月一五日
早朝勤務時間三〇分カット
というものである。
この事実によると、ストライキの回数は五回、昭和四三年度一回、昭和四四年度、昭和四六年度は二回、即ち一年間に一回又は二回行われたにすぎず、ましてや二回の昭和四六年度は他県では決して処分されない三〇分規模のストライキが二回行われたにすぎないのである。
原判決が、ストライキ回数、規模、態様が大々的と認定したのは明らかに採証法則、経験則に違反するものというべきである。
4 その他の事項の採証法則、経験則違反
(一) 被上告人らの警告について
被上告人が、原判決のとおり文部省とともに教職員に対して警告を発したことは事実である。それならば、本件争議行為の原因となった人勧実施時期についての値切りについて、被上告人ら当局の人勧尊重義務違反の責めを何故問わないのか理解し難い。自らが、人勧尊重義務のために何等の努力を尽くさずに、争議権制約の代償である人勧の完全実施という当然な要求のために僅かに三〇分の規模、態様というストライキ三回、一時間、一時間三〇分各一回、それも三年間にわたって行われたにすぎない行動に対し自らの非を棚上げしてなした警告を正当なものとして考慮することは、考慮すべきでない事項を考慮する他事考慮にあたる。
(二) 本件処分の苛酷性について
原判決は「本件各処分を受けた原告らの単純参加者としての最高処分は、減給一月で、組合役職者としてのそれは停職六月であり、従来の処分、他の任命権者の処分、他府県の処分に比してかなり重いといえる面の存すること、しかもこれらの処分にはすべて昇給延伸を伴うものである」と認定し、被上告人のなした本件処分の苛酷性を一応認めている。
被上告人の処分基準は「単純参加一回につき戒告、二回につき減給一月を原則とし、離脱時間の短いことを軽減事由とする」(一審判決B69、70)もので、三〇分の職場離脱さえも懲戒処分とし、二回目は加重するという全国に稀な平衡感覚の失われた処分政策をとる権力主義行政であった。そのような前近代的蛮行を前記(一)で述べた理由で免責することは、明らかに経験法則に違反するというべきである。
四 結論
以上述べたように、原判決は、本件処分の裁量権濫用判断にあたって、人勧尊重義務違反、国際協調主義違背の重大な事項の考慮を全く欠落し、本件争議行為の動機、手段方法、態様、その結果について、採証法則、経験則に反した事実評価をなした結果、審理不尽に陥り、考慮してはならない事項を考慮するなどの裁量権判断基準を著しく誤る法令違反があり、この違反は判決に影響を及ぼすこと明らかである。
よって、上告人らの前記主張を考慮すれば、本件処分は社会観念上、著しく妥当性を欠くものとして取消を免れない。
以上
<別紙>
上告人 梶村晃
外八三名
右八四名訴訟代理人弁護士 佐伯静治
立木豊地
槇枝一臣
秋田瑞枝
被上告人 福岡県教育委員会
右代表者委員長 佐藤清
被上告人 福岡市教育委員会
右代表者委員長 小屋修一
右両名指定代理人 波多野敏之